パブロ・ピカソさんらんとして地に死ぬをありあけの馬は見て忘れけむ

坂井修一『群青層』(1992年)

 

 

この歌の大きさが好きだ。

ピカソという、埒外に大きな芸術家の死が、まさに燦爛たる光を地に放射するような上句。

月がまだ残りながら夜が明ける頃、馬はその死を一瞥、そして忘れたであろう、という下句。

 

どんなことであろうと忘れ去られていく、というような生ぬるい言い方では足りない、〈死〉をめぐる破格のスケールがある。

「ありあけ」の、淡いが複雑な光のありよう、その質が、うつくしく立ち顕れ、静寂の中に佇つ馬は、哲学的な暗喩のようにも見えつつ、馬でしかない。

何か作品と関係づけられているのかもしれない。

 

 

下句初めの、「ありあけ」に二度あらわれる、アの明るい音は、このことばのイメージに加えて、〈死〉を超えて未来への思いをいざなうようでもある。

上句のきらめきながら奔ることばの勢いに続けてうたわれる、華麗、冷厳な〈死〉の姿と、その後も流れていく時間と。

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