斎藤茂吉『白き山』(1949年)
名残というと、たとえば名残を惜しむ、のような言い方が思い浮かんだりして、どこかゆかしいものを感じる。
ところがこの歌の三句以降に登場するのは、「魚の眼玉」を舐っている情景。人の好みはさまざまで、別にとやかく言うことではないのだが、あまり品のいい感じはしない。結句のうたいぶりが、また妙に粘着質で、執念く舐め続けている感じがする。
このミスマッチに、最初、さすが茂吉、突飛というか、やっぱり変わっている、と思った。
しかし、その三句以降を、あたかも自分の口のなかに塩辛い眼玉があるようにして味わっていると、茂吉が言おうとしたことがよくわかる気がし始める。
さして大きくもない球形のものをころころやっている内に、塩辛さも次第に薄れ、ついにはまったく味がないようでありながら、塩味がほんのり香るような感じになってくるだろう。
その時の感じって、確かに、名残、残されたものに感じるあの気持ちに通うものがある気がする。
人と別れる時に抱く気持ちにさえそこはかとなく通じるものを覚える。
こうしてよく味わった末に考えてみると、名残という言葉が一般的にもつイメージを、結果として、それとなく押しひろげてしまっていることが興味深い。
食いしん坊の茂吉ならではの一首ともいえる。