『一百光年』杉浦翠子
磁石の例えは安直にすぎるとも感じるけれど、コミュニケーションの内実は同調や同意だけでは済まないということだろう。AといわれたときにAと返すのと、Bと返すのとCと返すのと。BやCの中にはささやかであっても反論や反発が込められていることがあるだろう。磁石の同じ極を寄せたときにめいっぱいの反発があり、対極ではぴったりと吸い寄せられる。その間に、細かな磁場のグラデーションがある。そのグラデーションの磁力によって生じる漣のなかにこまやかなコミュニケーションが成り立っている。言い方を変えれば、まっすぐな道を歩いていくだけでも、人の足は自身の体重を支えているだけでは済まない。いくらかでも地面を蹴り返し、あるいは他の手段であってもなにかの反発や摩擦の力を利用して、次の歩みを進めることで移動というベクトルがうまれる。
ちょっとした反発を受ける場合にも、または自分が反発することにもいちいち傷ついてしまうけれどそれはまた必須、必然でもある。なにが言いたいかというと、掲出歌がとてもいい歌だと思うのだ。なぜこの歌が胸を打つのか、なぜここに詩が成り立つのかを伝えなければいけないから。さかのぼるとこれはコミュニケーションというイメージを誘導しているのではないかと考える。この人の頬に雪が落ち、溶けて消える。雪の側の視点(?)は、何かの地点に落下し、われしらず溶けてなくなるというのみである。いっぽうこの人の側では、雪のふる風景が見える。視野のそばに雪が落ちてくる。そのわずかな重さを感じ、なおかつ冷たいという感覚が追いかけてくる。しかし雪はすぐに水に変わって溶けおち、重みを失うとともに体温に温められて冷たいという感覚もなくなってくる。この変化をもたらしたのは、私、この人の体温である。
雪を見ながら、また触れながら、けんめいに自身のことばかり考えているように見える。体温を自覚することは、そのまま世界に対して自分があること、自然現象に対してささやかに反発していることの自覚につながっている。しかもその反発は体温をもつ以上避けられないので、どこか必然でもあるといえよう。そしてここまでは必然であって、傘をたたむという行為は、あきらかに自身の意思をともなっている。さらに雪のなかへ踏み込み、理解を深めたいという決意。雪明りは自身の内部を照らしてばかりだけれど、外とのかかわりがないことを意味しないし、このせめぎあいによって、道は歩まれている。
わが歌にひとの一人を泣かしめなば老いても枯れても腐りてもよし
