小島なお『展開図』
数年前までの四十何年間か、掃除というものの意義がよく分からなかった。たとえば部屋をきれいにしても一週間、二週間経っていくうちにもとの荒れた状態に戻っていくのであれば、掃除というのはあまり意味がないのではないか、という個人的かつ脆弱な理屈が主に感情面に支えられながら長いこと掃除に対する抵抗としてわたしの中心にあった。あるとき「循環」という語が「掃除」という語の隣に現れて、掃除というのは循環の一過程でありきれいになって荒れてまたきれいになるという繰り返しをうながすための一場面なのだということ、その循環によって部屋は生きるのだということがすっと理解された。それからは何となく掃除に対する抵抗がなくなっていった。「生活は球体」を思うとき、わたしにはまず掃除のことが思われたのだけれど、生活にまつわるありとあらゆることは循環でできている。人は永遠に活動しつづけることはできず、寝て起きて活動してのサイクルを繰り返しているし、朝がきて昼がきて夜がくるのもうっかり朝がきて夜がきて昼がくることになったりせずずっと同じ順序で循環している。春夏秋冬も気候の変動はありつつ基本的には春の次に秋がくるようなことはなく四つの季節が順番にやってきてそれが繰り返される。「生活は球体」といきなり断言されたら半分くらいの人は面食らうのかもしれないが、循環は輪っかのようなものだから生活にまつわるそれをいくつも対角線上に嵌めていく先には球体ができあがっていくはずである。
この歌では「球体」という概念が一字空けの後にすさまじい変化を遂げて「ガラスの玉」という具体へと掴みなおされる。ここは案外読者の側としてはすんなり受け入れられるところだと思うのだが、「球体」と「ガラスの玉」のあいだにある一字空けは、名詞と名詞がくっつくのを避けるための技術的なものというより幼虫が蝶々になるためのさなぎの時間というか、この変質は一字空けなしでは成立しないもののように思われる。
さまざまな循環が集まり球体となり、それが透明なガラス玉へと遷移する。そういうガラス玉を感じながらストレッチをする自分がいて、また、ガラス玉のなかでストレッチしている自分を覗き見ているもうひとりの巨大な自分もいる。出だしの断定も一字空け前後の変質も大小のまなざしの交錯もすべて大胆かつ奔放で、循環のなかに閉じ込められていることの閉塞感がほとんど感じられない。「ストレッチ」という言葉があるから、というわけではないけれど、読み終わって何だか気持ちがいい一首であるが、それは大胆かつ奔放な一首の構成に加えてやはり「循環」が生をうべなうものとして一首のうちにあるからなのだろう。
プレパラートに昔覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜
