博物画 産毛のような描線でわたしも感情をえがきたい

田村穂隆『うみとファルセット』

 

博物画は一般的に思われる絵画とはちがう。美術的なものではなく科学的な絵画であるから、美しさよりも精密さ正確さが要求されるものだと思う。いま試しにいくつかの博物画を眺めながらこの文章を書いているのだが、博物画には何ともいえないグロテスクさがある。動くことを前提に表れる生身の生物の線やラインといったものが博物画に写されるとき、その描線が緻密であればあるほど「動く」という目的から遠ざかる。その遠ざかりがはっきりと見えてくる。そうして動く目的を完全に失いきることで二次元の存在として完成する。緻密であればあるほど生物はからっぽになり完全な二次元の存在になっていく。おびただしい描線の生物的無意味に直面して気持ち悪さが募ってくる。緻密なのにからっぽであり、緻密だからこそからっぽなのだということが乱反射して、その乱反射がグロテスクさを見せるのではないかと思う。

「感情をえがきたい」のは感情を描くことができないからこその願望である。感情という出来事は体のなかの心のなかで繰り広げられるものではない。そんなに小さなものではなくて、心身よりもはるかに大きい出来事なのである。心身のなかに感情があるのではなくて、感情のなかに心身がある。感情が動くたびそのなかで心身はつねに転がされる。心身は感情の体内しか知ることができないから、それを外側から見て精緻に描き出すことはかなわない。そこにこの一首の苦しさがある。感情の体内から抜け出して、捉えきることのできなかったその全容をつぶさに観察し感情を博物画に仕立て上げること。産毛のような細い細い線で緻密に描いていくことは、つまり感情の中身を抜いて息の根を止めることにひとしい。「えがきたい」は生き生きとした感情をそのままに保存したいという願いなどでは決してない。博物画にすることで自身の感情が持つグロテスクな様相をきちんと炙り出し見つめたいという願望、何より自身の感情を博物画にして殺めたいという願望。感情は得体がしれない。その得体の知れなさにもがきながらときおり突き出される手が見えてくるような歌であるとわたしには思われる。

 

背の低い町に暮らせば全身を見せびらかして溶けてゆく雲

 

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