ここにいま杖捨つるべし朱鷺色に雲暮れてゆくこの時にこそ

一ノ関忠人『さねさし曇天』

 

この歌には「病後長く使つてゐたチャップリンタイプの樫の杖だが、今日から頼ることを已める。」という詞書がある。この歌のタイミングでは病を克服しまだ体力的には不安定ではあるものの気力は充実しているように思われる。「ここにいま杖捨つるべし」の二句切れの力強さにも、「ここにいま」「この時にこそ」といった瞬間を握りしめるような語気にもその気力の充実が出ているだろう。直前の歌(連作の最初の歌でもある)が

 

そろりそろり冬到るべし渡り来る鴨どち川の岸に群れたり

 

なので、掲出歌は特段の事情がないかぎり川岸の光景を引き継いで、「ここにいま」と読んだときに川のほとり、川の土手がこちらの頭をよぎる。杖をついて川岸まで歩いてきて、突如強い情動が湧き上がる。家を出る前に「きょうは杖なしでちょっと歩いてみよう」という感じや家に帰ってきたあとで「きょうはいい調子で歩けたから明日はちょっと杖なしでやってみよう」という感じではない。道程の途上で怒涛のごとく決意がみなぎっているところにこの歌の凄みがある。無計画と言えば言えるのだけれど、夕映えの朱鷺色が一人の心理に流れ込んでいった結果の必然であるのだとも思ってしまうし、朝から輝きとおした太陽の、ほとんど最終的な輝きの時間と一首に表れる個人の人生的局面との一致によってブーストがかかっているようでもある。夕映えはそのまま衰えて夜に入っていくけれど、夕映えほど鮮烈で印象的な光を湛えた時間は一日のどこを探しても他に見当たらない。夕映えと自身との一致はやがて時間的夜、肉体的夜を迎える。その夜を見据えているから、「ここにいま」「この時にこそ」といった瞬間の把握に力がこめられる。そう言えば「朱鷺色」ももはや衰えていくほかにない言葉であるのかもしれない。さまざまに衰えてゆくものたちがそれでも新鮮な色合いを帯びて現在を領している。杖を手放すタイミングとしてはなかなかあり得ないシチュエーションだという初読時にもった印象は、こうして一首をじっくり読んでいくうちにこのタイミングしかないという気持ちへ変化していく。一瞬で歌に手が届いているような気にさせてくれる歌もあるけれど、じわじわと手が届いていくこの一首の感じもまた歌を読むよろこびのありようとして大切なものであるのだと思う。

 

信号は赤き点滅をくりかへす夜の鼓動にふれたるごとし

 

 

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