笹川諒『眠りの市場にて』
ものはどこかで区切られそれがかたちとなって表れることで何物かになる。ありとあらゆるものが見せる安心感は区切りのあること、有限であることと密接な関係があるはずだ。空は果てしないものだが、その果てしなさというものも空を見たときの視界によって区切られ、また「そのとき」という時間性によって区切られ基本的には空も整理されてゆくことでひとつのものとして把握される。だから空にも安心感を覚えることができる。この思考を前提に掲出歌を読むと、この歌の空には区切りがない。定型という区切りの最たるもののなかにありながら、区切りのなさのなまなまとした不安感がそのまま空になっている。
エスキースとはデザインなどの構想を練るために描かれるスケッチを言う。冬鳥の始点も終点も「かなた」であって、何とはなしに右端から左端のような感覚で整理しそうになるものの「かなた」の語にそもそも含まれる不明感と三句目「かなたへと」の言い指しがこの整理を拒む。「彼方」ではなく「かなた」とひらがなで書かれた文字列であることもより不明の感じへ流れていると感覚する一因になっているだろう。こうして右端から左端へ、の整理はなされることがなく不明から不明へ、と冬鳥は飛翔する。空は冬鳥の飛翔のほかにも雲を浮かべたり朝焼けをみなぎらせたり闇のなかに星をちりばめたり、とにかくさまざまなものをスケッチしてみせるわけだが、「エスキース」という言葉が連れてくるはずの指先や手首は歌のどこにもない。「不明」が主体となってエスキースしている。スケッチには完成という区切りがあるから安心できる。一方でこの歌は空間的にも時間的にもどこまでいっても構想を練りつづける。そしてもちろん、何の構想かはだれにとっても不明である。空は不明であるものの力によって不明が流動している、そういう場所としてある。人間の感覚が空を統治しようとする手際の裏をかくようにこの一首は空の不明性を示しつづける。地上には必ず合わせ鏡のように空があり、空の不明はいつでもどこからでも地上に降りそそぐ。いつ見上げても莫大な不明が休むことなく動いていることのかすかな不安とかすかな興奮が、生まれたての質感をもって息づいている。
春霖よ未完のものが薄れゆく気配にいつも署名がほしい
