奥田亡羊『花』
初読の際には句切れの位置がどこなのかけっこう迷う歌かもしれない。「メリーゴー/ラウンドのひか/りのうずに」という変則的な句跨りで途中までは読めなくもなく、ただ、そうすると下句がだいぶだぶだぶになる。戻って最初からまた読んで「メリーゴーラウンドの/ひかりのうずに/つまはこを」にすると「しんといだきて/ながれゆきたり」でばっちりとなる。初句が十音。十七五七七。初句以外は定型だが、初句の字余りがすさまじい。「メリーゴーラウンドの」が「メリーゴーランドの」だと九音、「回転木馬の」だと八音でそれぞれ短くすることはできたはずなのにそうせず、いちばん長い十音が選ばれているところにどうしたってこの歌の読みどころがあるはずだと踏む。というか、踏むまでもなく初句十音の重たさは一首全体にとっても重たさとなり、そのままメリーゴーランドのおもたい動きへとつながっていく。メリーゴーランドはその回転速度と、馬や馬車やその他動物たちの上下動の速度がそもそも合っていないのだと思う。回転速度のはやさのわりに上下動はゆったりとしていて、結果馬や動物たちが回転のなかを溺れているような重たさを醸し出す。やがて目が慣れてしまえばそれほど気にはならなくなってくるのだけれど、そのあたりの体感も初句以外のばっちりとした定型感覚に一致するものがあるのではないか。つまり、このメリーゴーランドは回りはじめたばかりの光景ではない。回りだして回りつづけてしばらく経った中盤以降の光景なのだと感じる。「妻は子をしんと抱きて」も回りはじめは円周の埒外にいる父に向かって子どもの手をとり振ってみせたりするのかもしれないが、回されているうちにそういう動きも抑制されていく。しん、としてただ乗っているというのは、メリーゴーランド後半の時間の過ごしかたである。子を抱いた妻が溺れたような上下動を見せながらただただしんとして流れてゆく。かりそめの喪いが光の渦のなかに何度となく繰り返されてゆく。
メリーゴーランドは、アトラクション界の曼荼羅であると思う。複雑であざやかな装飾をほどこされた円は巡り、ほのかな畏れをまといながら巡りつづける。観覧車にもコーヒーカップにもない、ふと全生涯を垣間見てしまうような瞬間がメリーゴーランドにはきっとある。メリーゴーランドとは全生涯の簡素なほのかな模型なのだと、この一首を読んであらためて振り返った。
別れてはまためぐり会う星をうたうイスラエル民謡ひとつわが知る
