中津 昌子


白き坂のぼりつつおもう 尾はことに太きがよろし人もけものも

佐佐木幸綱『瀧の時間』(1994年)

 

 

わたしたちにはもうない尾っぽ。
だが、この歌の「人」はそれをもっている。
読んでいると、かつて尾をもっていた遠い記憶がよみがえるようで、ふと尾骨に手をやってみたりする。

 

さて、なぜ「太」い方がいいのか。
想像してみると、細い尾をひょろっと垂らしていると、気分もたよりない気がする。対して、太いものだと、重心が下がってどっしりする感じだ。いわゆる丹田に力をこめる、あの感じに近そう。見栄えも落ち着いたものになろう。

ここでは「のぼりつつおもう」のだから、よりその重みを感じることになるはずで、この「太き」には生きる重さ、苦しいことを含めての精神の充実が思われているようでもある。

「白き坂」には、今の季節だと月夜の場面などが思われるが、次の歌では「ひぐらし」が出てくるので夏の白昼の道なのかもしれない。

 

掲出歌を一首目におく「尾の重さ」は、弔問に訪れる場面を含み、他に次のような歌もある。

・死の家より帰り来たりて萎え居ればわが尾の先が異界にとどく
・尾の重きおとといきのう中年は尾の重たさと知り初めにけり

 

「尾」は人生を実感するものでもあれば、「異界」にも届く。

もう一度先の歌に返れば、「白き坂」に、この世でもあの世でもない、今という時でもない、空白のような場所が浮かんでもくる。

 

「尾」は、わたしたちがもうほとんど失ってしまった、何ものかを本質的に感取しうる、人間の要の器官としてあるようだ。