飛鳥仏に会いたるのちは貌という果実のひかり夕べの奥に

山下泉『光の引用』(2005年)

不思議な歌だ。飛鳥仏を見た後に不意にきざした感覚を、つぶやくように表した、そんな調べである。仏像に対面し、ごろりとして立体感のある頭部が印象にのこったということだろう。普段はあまり気にしなかった「貌」の立体性が気になり、「果実」のように思えたというのだ。1首の中で、飛鳥仏と、ヒトの顔と、果実のイメージが重なる。

 

飛鳥仏は、たしかに、顔のつくりの不思議を思わせる造形をしている。飛鳥時代の仏像のことで、アーモンド形の目、アルカイックスマイルを浮かべた口元、左右対称の造形が、神秘的な印象を与える。有名な飛鳥寺の飛鳥大仏、法隆寺金堂の釈迦三尊像などは金銅仏で、堂内の暗がりで鈍い光を放つ。その光の印象が、この歌では「果実のひかり」に結びついたのだろう。飛鳥仏の金銅の鈍い光と、夕方の光を受けている人の「貌」の照りと、果実のひかりの3つが響き合う。

 

 この歌の次には

  頬痩せし仏陀が紅茶にうつりいて暗くなるまで中庭にいる

という1首が置かれている。「仏陀」は仏像だろう。「頬痩せし」がやはり飛鳥仏の面長な顔を思わせる。頬の痩せた仏像の印象がまだ残っていて、紅茶に映る気がする、ということだろう。仏像の印象がゆらめく感覚を抱えたまま暗くなるまで中庭にいるという。

印象のかそけさをそのままに詠いとっているところが魅力的な2首である。

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