大き団扇持ちて机辺に胡坐せりむろんく-ら-はあまねかれども

岡井隆『静かな生活』(2011年)

「く-ら-」あまねく、とはいかない所もある今年の夏である。折しも近畿では、電力の需給状況を表す「でんき予報」が昨日初めて「やや厳しい」になり、今日もやはり「やや厳しい」を示している。「暑い」という季節の感覚に、電力の需給具合が指標として入り込んでくる、奇妙な夏を私たちは過ごしている。今年の夏は、去年の夏までとは違う世界に入り込んでいる。

 

さて、掲出歌は「机辺」に「きへん」、「胡坐」に「あぐら」とルビがある。歌の前には次の一句が添えられている。

   身を起すとき全身の汗流る(山口誓子『青女』)

歌集は2010年に一日一首ずつ、一年間詠み続けたものを日付順に編んだものだ。毎日必ず詩句や箴言、俳句が歌に付く。作者が言うところの短歌との「合はせ技」で、読者としてはその行間を読むことがなんとも愉しい。

 

掲出歌はちょうど1年前の今日の日付、8月9日の歌だ。誓子の句は、爽快なまでに暑い。暑い中、横になって身を休めていたが、起き上がるとき、肌に流れる汗を感じた、という。身を起こして初めて汗に気づいたのだ。「全身の」という簡潔な誇張がよくて、汗が水のように流れる様子が思い浮かぶ。そんなはずはないのだが「ざ-っ」と水が流れるような音まで感じてしまう。暑い歌なのだが、どこか爽快さまで感じられるのはこの印象のせいだろう。

 

誓子の句を受けて、歌の「むろん」の諧謔が生きる。大きな団扇片手に机のそばに胡坐をする。暑いさなかの昔ながらの納涼の図、と思わせておいて、「もちろん、ク-ラ-は部屋の隅々まであまねく利いているんだけどね」という。ク-ラ-の利いた部屋で団扇を持って胡坐でいる「私」の姿が妙に可笑しい。誓子のストレートな暑さと風流の表現と対置すると、空虚なポーズをとっているようにも見えてくる。むろん、作者も空虚であることはわかっていて、それでもポーズをとる。「く-ら-」の平仮名書きに、おかしみと気の抜けた感じ、皮肉めいた視線は出ていよう。

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