魚村 晋太郎


生ひ出てそこを動かぬ木草らのもの思ふ日暮れ白き十薬

米田律子『滴壷』(2006年)

十薬はドクダミのこと。
中国でも日本でも、利尿、駆虫薬、傷薬、などの民間薬として使われた。
たくさんの薬効があることから十薬と呼ばれ、ドクダミの名も毒を矯める、毒を止める、というところからきたという説がある。
林の下や庭のすみなど、薄暗いところに生えることが多く、独特の匂いがある。
梅雨のころ淡黄色の小さな花序をつけるが、花序の下の総苞が、白い十字型の花びらのように見える。

植物は、芽を出したところから動くことはない。
言われてみればあたりまえだが、ふだん意識することのない、そのことの発見がまずある。
薄暗いところに生い出て、そこに咲く十薬の花が、もの思いにふけっているような日暮れの風景だ、と読むこともできる。

けれど、一首のもの思いには、もう一歩ふみこんだような印象がある。
「生ひ出てそこを動かぬ木草らの」はいわば序詞、有心の序のようにはたらいていて、も思いにふけっているのはきっと主人公自身なのだ。
生きてゆく場所をえらぶことのできない木や草、そんな木草らのことに、或いは、そんな木草らのように、主人公は思ひをめぐらせる。

翻って、人間はどうだろう。
転居したり、旅行をしたりできるし、職業をえらぶことも変えることもできる。
でも、日本人に生まれて日本人以外として死ぬ人はほとんどいないし、そんな大げさな例を出さなくても、出自にやわらかく拘束されながら生きる人が多いだろう。
考えてみると、おおかたは「生ひ出てそこを動かぬ」ような生である、といえなくもない。
そして一首の場合、それは諦観であるよりもむしろ矜持である。
夕闇のなかで、十薬の白はきわやかに目にとまる。