大野道夫『秋階段』(1995年)
ひととき、『創世記』の木の実を食べてしまう前のアダムとエバのような、原初の男女像を想像した。無垢な愛を感じる歌だ。
「一対にして」という表現に、運命にひきあわされた男女をおもう。
ともに生きているふたり。あるいはいつか出逢うふたり。
一緒にいるかいないかは関係なく、ふたりにはそれぞれの朝がきて、それぞれの時間に歯を磨き、それぞれの場所へ「歯ブラシ」を「置く」。
それは、二人が向き合っていると同時に、それぞれ独立したにんげんとしている、という感じなのだろう。
「歯ブラシ」を「置く」時間の、そのわずかなすれちがいやズレは、あるべきものであり、なければうまくいかない。
わずかなすれちがいは、明日の愛へとつながっていく。
いつもなにかが足りない。いつもあなたの時間に遅れてしまう。そうおもえるからこそ、
明日の希望をもっていられるのだ。
いつも感じていたい。「はるかなる時間差」を。