黒田瞳『水のゆくへ』(2011年)
階下には縹色の夕暮れが来ている。縹色とは薄い藍色。日が傾いて、昼の明るさに満ちていた空間がいつの間にかすっかり暗い縹色へと移行している。夕暮れになった階下へとそっと素足のつま先を差し入れてみようというのである。具体的には、階段を一階へと下ろうとしているのか、あるいは足をぶらぶらと階下に垂らそうとしているのか。いずれにせよ、つま先で階下の暗がりを感じようとしているイメージがある。「階下」から「つまさき」までの名詞の連続は軽快だが、下の句の「跣」「つまさき」に至って、足がクローズアップされてその感覚が研ぎ澄まされていないだろうか。そんなつま先をそっと暗がりに差し入れる。やや肉体的でもあり、暗がりの感じ取り方に面白さがある。
『水のゆくへ』は著者の第一歌集であり、文語へのこだわりと偏愛が独特の世界を形成している。引用歌では「縹いろ」「跣」という言葉の選択にこだわりがあり、景としてはやや朧だがふっとつま先の鋭敏な感覚が出てくる。口語だから感覚や感触が直に歌えるというわけではない。この一首では普段使いの言葉ではない文語の表現の試行錯誤の中でも、つま先の感触が直に差し出されている。
みづうみにあはくさしだすただむきのこの世にあれば桟橋と呼ぶ
こともなくけふ終へたれば山すそのもみづるひともとしずかに立てり
のずゑには不可思議の汽車うつつなく美しき鋼にかへらむとして
草焼べておこす火の手の痴(し)れごころ尺に満たねばなだめがたしも
一首目、歌の情報量としては目の前に桟橋があるということのみである。しかしながら、それを「ただむき」(腕のこと)と喩えて、「あはくさしだす」「この世にあれば」と表現することで、桟橋を見ているときの主体の心の寒さや寂しさまでが見えてくる。そのときの「空気」が伝わるのである。四首目、草をもやして起こす火の揺らめきに痴れごころを感じ取る。理性ではない、生の感情の揺らめきとしての火は、一尺に満たない大きさであるが、それゆえに宥めがたいという。炎と感情の揺らぎは対比されやすい題材かもしれないが、「尺に満たねば」あたりに、リアルを感じる。
解かず置く荷のひゐやりとしづもりて冬の湖やうやくとほのく
入り組みしあらがねの梁あふぐとき空が見え鷺が見ゆ広島の
最後の歌、原爆ドームを歌った歌だろう。まるで目の前の家の梁から、だんだん原爆ドームのあらわな骨組みがズームアップされてゆくようで、景がぐっと迫ってくる。
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