魚村 晋太郎


吃水の深さを嘆くまはだかのノア思いつつ渋谷を行けば

中澤系『uta 0001.txt』(2004年)

吃水、とは船体の水中に没している部分の深さのこと。
この一首の場合、山山さえもその下に没したという創世記の大洪水の、洪水自体の水の深さ、と取れなくもないが、ふつうは船体のことをいうので、そのように読む。
多くのものが積まれると、同じ船でも吃水はふかくなり、吃水が船縁をこえれば、船はたちまち沈んでしまう。
積み込まれたものの重さと浮力の危うい均衡が、吃水の深さ、には表されている。

はじめ、嘆く、の部分の読みにすこし迷った。
嘆く、が終止形だとすると、全体は倒置法で、嘆いているのは主人公ということになる。
嘆く、が連体形だとすると、嘆いているのはノアということになり、主人公の感懐は、結句以下に暗示されていることになる。
後者かな、とも思ったのだが、ノアが葡萄酒に酔って真っ裸になったのは、洪水がおさまって、葡萄作りになってからのエピソード。
そう考えるとやはり、吃水の深さ、を嘆くのは主人公なのだろう。

旧約聖書の神は、地上の堕落を見て、人や動物たちをこの世に作ったことを後悔し、大洪水を起こしてすべてをほろぼした。
神にえらばれたノアは、洪水後のあたらしい世界をつくるために、自分の家族とひとつがいずつの鳥や動物たちを連れて箱舟に逃れる。
吃水の深さ、に象徴されるのは、積み込まれた希望の重たさ、かも知れない。或いは、未来の重たさなのか。
船は多くを積んで、ぎりぎりのところまで水をかぶる。
そして、試練を生き延びたノアが、後年、酔っ払って全裸になり、わが子に服をかけられたエピソードは、ノアが別段義人だったからではなく、ただ神の恵みによって選ばれたことを示すのだというが、人間の二面性とか、人生の曲折を象徴しているようで面白い。

そんな、人間観を前提にしながら、一首にこめられているのは、現代の渋谷の街を歩く若い主人公のこころの屈託にほかならない。
渋谷の街をあるく人人は、まるで葡萄酒に酔ったノアのように屈託がない。
或いは、主人公自身も、そんな浮かれた気分で歩いているのかも知れない。
しかし、こころのどこかに、ぎりぎりのところで水に吞まれる船のような危うさを感じている。
船を沈めようとしているのが、えらばれて箱舟にのせられたもの、つまり希望、或いは未来の重たさであるところに、一首の若若しさがある。
作者の師である岡井隆には、

  ノアはまだ目ざめぬ朝を鴿(はと)がとぶ大洪水の前の晴天   『大洪水の前の晴天』

の一首があり、作者には師の一首から触発されるところがあったのかも知れない。
作者は、長く難病を患って、今年の4月に39歳で亡くなった。
歌集は、病気のため意思表示もままならなくなった作者の意をくんだ仲間たちの尽力によって刊行された。