柳宣宏『施無畏』(2009年)
母は呆けてしまった。
わたしを生み、守り、育ててくれた母。その母はいま、介護をされながら生きている。歩くことさえままならないので、そのからだを支えようとして、しばしばわたしは母と肌を合わすことになる。
もうずいぶん触れることなどなかった母の「てのひら」。
おもいもかけず、その柔らかさを知ることになった。
母はこんなに柔らかいまま生きていたのか。
ありがたいようなさびしいような、複雑な気持ちになる。
しかし、この歌はそんな感傷的なものではない。
「息子を忘る」。この結句に壮絶な現実がある。
つまり、縋ってくるときの母は、子に対する触れかたではもはやないのだ。
母は、どんなときでもわが子に触れるときは、慈しみの力をこめる。
だが息子の顔や存在さえもわからなくなってしまった母にとって、わたしはひとりの隣人である。そうするとおのずと触れかたも違ってくるのではないだろうか。その違いがわかるのは、母とわたしだけだ。いや、母は呆けているので、わたしだけだ。
縋ってくる母の、他人行儀な重心。
わたしはひとり、母のてのひらを握り、支える。
そうして母もまた、ひとりである。