魚村 晋太郎


もうどんな約束もなし身ひとつを運びきたりて菖蒲にかがむ

三井ゆき『天蓋天涯』(2007年)

菖蒲と書いて、ショウブともアヤメとも読む。
ショウブとハナショウブの違いについては以前書いたが、ハナショウブのことを単にショウブと呼び慣わすこともある。
ショウブもハナショウブも水辺や湿地に多く、アヤメは水に縁のない山野にも咲く。
一首の場合、ショウブと読んでハナショウブのことを指していると読みたい。

ひとは一生にいくつくらい約束をするものだろう。
いつかあの湖に旅をしよう、という約束。もうこんなことはしません、という約束。
靴下を脱いだらちゃんと洗濯機に入れる、なんて約束もあるか。
嘘ついたら針千本吞ます、などというが、契約とちがって、ふつう約束にはやぶったときの罰則みたいなものはない。
約束は、信頼関係のあかしでもあり、一緒の未来をのぞむしるしでもある。
魂の一部分を、にぎりあっている感じ。
そういう意味では、はたされようとはたされまいと、約束をすること自体が幸福なことだ。

もう、どんな小さな約束も交わすことすらできない。
大切なひとを失った主人公は、自分につながるすべてを断ち切られたような気持ちで水辺の花にかがむ。
四季はめぐり、初夏の水辺にはまるで過ぎ去った日日と同じような景色がひろがっている。
水のきらめき、そして花菖蒲のこぼれるような大きな花びらは、主人公の虚ろなこころを際立たせるようだ。

夫、高瀬一誌を亡くして「狭くて深い穴に落ちこんでいた時期のもの」だという歌集には、次のような一首もある。

  触れたればその内二匹が啼きて飛ぶ朝の廊下の落ち蝉七つ

直接の挽歌ではないが、廊下に落ちて動かない蝉がまだ生きているのではないかと一匹一匹かがんで触れる、触れてみずにはいられない作者の後姿に哀しい凄みを感じる。