高雲は夕映えしつつ鉄筋のアパートが曳く影の鋭角

                    古舘佐智子・合同歌集『雲』(1959年)

 

 一昨日と同様に、合同歌集『雲』よりの引用である。
 結句の「影の鋭角」が印象的な作だろう。空の高いところに架かっている雲が、夕映えてゆく。そのなかで鉄筋のアパートもあかく染まりつつあるのだろう。そういう大柄な景を捉えたあと、主体はアパートの曵く影に視線を移す。そういえば、この影は鋭角であると。アパートは直方体だから、建物そのものには鋭角の部分はないはずだ。それが夕日によって影として投影されると(投影図?)、鋭角の部分ができるのである。それに、ふと気付いてこころが揺れたのであろう。やや茫漠とした大柄な上の句の景と対照的に、結句の「影の鋭角」はどこかくっきりとしている。アパートおよびその影をどのような位置関係から見たのかは詳細には分からないが、「影」は読者にもひどく鮮明であり、歌全体にリアリティーを与えているように思う。
 
白樺の根方の雪に埋もれて初めて君にすがらむとせし

てのひらに軽くはかなき魚の食撒けば思はぬ方へ流るる

どの部屋にも少しづつ吾が傷つけし痕あり嫁きてかへるなと言ふ

七十にちかき姑が遠くより想ふほどには新鮮ならず

カナリヤは死に幼な児はあゆみ初む親しからねどわが部屋の階下(した)

十字路に巻きたつ春の砂ぼこりそこも過ぎ来つ吾は胎児と

朝焼けのやや広ごりてゆくあたり忘れてゐたるひと在るごとし

知恵づきてゆく子のかたへある限りの玩具を置きぬ吾は疲れて

 

   恋愛・結婚・出産という日々が、生活の細部と微妙な心理の照り陰りの間で詠まれている一連のように思った。二首目、金魚か目高に餌をやっているのだろうか。「軽くはかなき」餌が「思わぬ方へ流るる」のは、水面の様子をこまかく描写したものでありつつ、どこか飼われている魚の生のはかなさやあてどなさに通じる。「はかなき」「おもわぬ方」は撒いた餌の形容でありながら、どことなく主体の心理に通じるのである。四首目、結婚後の生活が「想うほどには新鮮ならず」という感想は少しどきりとするが、「ほどには」あたりの微妙な陰影のつけ方に、実感があるのだと思う。七首目、「忘れてゐたるひと在るごとし」という下の句は、情報量はほとんどないに等しいが、なぜか読者のなかにすとんと落ちる表現だ。忘れていた人なのだから、その輪郭もおぼつかないような人物だろう。そんな人物が存在しているような空であるよというのであり、空には何もないのである。空に何か懐かしいようなものが見えた感覚がしたのだろうか。それは一瞬のちには忘れ去られてしまうものに違いない。極めて感覚的な、美しい虚辞になっていると思う。

 

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