柳澤美晴『一匙の海』(2011)
ある時、かつて自分をいじめた子の名前をすっかり忘れてしまっていることに気づく。名前のない彼(または彼女)の方も、いじめた相手のことなんてとっくに忘れているかもしれない。けれども、そんな風にのんびり生きてくれていて、全然構わない。私にとって、あいつはもはや「名無し」なのだから。
この歌の肝は、「わたしに」記憶がない、という主体性にある。語り手は、いじめそのものに対する怒りを捨てている訳ではいない。けれども、「いじめられた」という記憶をいつのまにか自力で乗り越えていたことに気づいたからこそ、「いじめっこ」のことも、そっと解放してあげることができたのだ。
「あんのん」のひらがな書きが良い案配。「安穏」という漢字表記だと、怒りの方に針が振れてしまいそうなところを、柔らかくまとめている。
怒りと優しさと解放感が入り混じった、存在感のある一首である。
柳澤美晴の歌には、きれいごとだけでは終わらせない激しさがある。
引用という牛乳のやわらかき皮膜にとわに守られていよ
海底にちらばる錠剤どこまでもあなたひとりの痛みですから
一首目は、引用ばかりで自分の意見をはっきり言わない文章への苛立ちを、牛乳を温めた時、表面に張る膜に喩えた歌。「皮膜にとわに」の「に」の重ね方など、全体的にごつごつしているが、その無骨な文体から、「やわらかき皮膜」に対して本気で抵抗しているような手触りが感じられて、どきっとする。この人は、決して膜のなかに閉じこもらないのだろう。
二首目は、養護教諭として働く日々の感慨。「どこまでもあなたひとりの痛みですから」というフレーズは、クールに突き放しているようだが、痛みを本当に分かち合うことはできない、というひりひりとした自覚に基づくものだと思う。
既視感のある生き方であろうともガソリンの虹またいで駅へ
自分の生き方は誰かの生き方をなぞっているだけなのではないか、という「既視感」に足を取られそうになりながらも、前へ前へと踏み出していく。その力強さが眩しい。