棚木 恒寿


けものらは滴(しず)ける闇に骨を解き冬の韻(ひび)きのとおく聞こゆる

 

                     辺見じゅん『雪の座』(1976年)

 

 『雪の座』は辺見じゅんの第一歌集。引用歌はその冒頭に近いところの一首であるが、どこか幻想的な気配のする作品だ。上の句、「滴ける闇」とは滴するような闇ということで、露が降る静かな夜を想像した。「骨を解く」もすこし抽象的な表現だろう。私は、けものが体の緊張を解いてしずかにうずくまっている様子を思う。露の降る暗闇で、野のけものがしずかにうずくまる。作中主体の視線や体感は、野のけものと重なりつつ、遠くに冬のひびきを聞くのである。主体の感覚が、はるかな空間の向こうのけもののものになっている。

 

みどりごの足裏に波がのこりいて晩夏(おそなつ)のねむり昼をひそけく

 

 目の前に赤ちゃんが横になって眠っているのだろうか。まだ歩かないその足には、ふっくらと波が打つように皺が寄っている。「足裏が波のようになって」ではなく「波がのこりいて」であるところが、印象ぶかい所だろう。赤ちゃんの足の裏に、もともと波があったかのような感覚、海のイメージがなぜかすーっと広がってゆく。目の前の赤ちゃんの足を見つつ、意識は晩夏の海へとおもむくといえば読みすぎだろうか。下の句に至っても、晩夏の昼寝の時間が書かれているにすぎないのだが、言葉のたった一か所から、零れるように意識が広がってゆく。

 

 

変形の繭を紡げる婆っ子にほたらほたらと雪は降りつむ

 

日昏るればわれを捜すか祖母の声遠潮騒のように聞きたり

 

縄文の呪具を五月に光らせてにんげんに会わぬ村の地図もつ

 

月やくの女がめしを食いている板小屋はいちめん菜の花畑

 

花冷えの蔵のまひるま自が影を庇うごとくに初潮をむかう

 

 歌集では、少女期から戦後、近年の父の死など、長い時間が歌われているが、いずれも現在による過去の回想ではなく、現在の時間が過去の時間とおのずから重なってゆくようだ。例えば五首目、自らが初潮を迎えたときの歌だが、「花冷えの蔵のまひるま」は舞台装置でもあり、少女をズームアップしてゆくような視線がある。ひょっとしたらそれは、過去の「私」を外から眺めている現在の「私」の視線ではないだろうか。下の句「自の影を庇うごとくに初潮をむかう」は「ごとくに」がやや強引で解釈がむつかしいが、自分の影を庇うようなことをしていたら、生身の人間のほうが影を孕んでしまった(=初潮を迎えてしまった)ということだろう。これは、高度な自己認識でもあり初潮を迎える少女の「今」を捉えつつ、現在の「私」のまなざしが顔を出していると思う。過去と現在、少女期と大人の今のまなざしや感覚が時に混ざっており、それゆえだろうか、表現はいつしか民話的な語りに近づく。

 

 

焼跡に老婆は穴を掘りいると見れば片腕うずめおりたり

 

遠く見し白きスェーターの少年 告げ口をするときも美(は)しかり

 

黄のバナナ胸いっぱい食べたしとおとうとよ紙の飛行機とばす

 

叱られしことあらざるもあるときは冷やけきまなこ身にもつ父や

 

ときおりはわれら気疎くみる父の夜ふけてさむく背広脱ぐなり

 

 一首目は空襲の時の歌、二・三首目は戦後の風景、四・五首目は、若き頃の父の歌。回想の歌であるはずだが、過去の時間がなまなまなと現在のそれのように立ちがる。

 

 

汗うすくなりつる父の顕たしむるわたつみのおらび夜半に聞こゆる

 

一粒の葡萄の黒(こく)をふふみつつ飢えたる父のいのちのばしぬ