棚木 恒寿


夏にみる大天地(おおあめつち)はあをき皿われはこぼれて閃く雫

 

                     窪田空穂『まひる野』(1905年)

 

 季節は7月に入り、もう盛夏である。この歌も、盛夏の歌ということになるだろうか。夏の大天地は青い皿であるという。大天地、すなわちこの世のすべてを青い器であるとするスケールの大きい比喩が魅力的。私の頭の中では巨大な青いガラスの皿が中空に浮かんで漂っている。そして天地が皿であるとすると、自分はそこに零れる雫のようなものであるよという。自分はすぐにでも乾いてなくなってしまうような、ちいさなちいさな雫なのである。しかしながら、この雫こそがかけがえなくも「われ」なのである。比喩の鮮やかな上の句が注目されるが、その大柄な景に溶けながら顔をだす下の句の「われ」に、どこか明治の青年の希望と自負を感じるように思う。露のようにはかなく消えてしまう「われ」ではなく、青春のさなかの「われ」が顔を出している。

 

 夢覚めつ起ちて眺むるわが眉に続きて照れる大野の雲や

 

 初句、「夢覚めつ」でいったん切れる。ここで、すこし時間の経過があり(意識が覚醒して)、起きだして眺めると、自分の眉に続いて大野の雲が照っているという。自分の体が巨大化して雲につながっていくような不思議なイメージである。二句目以降で、覚醒して世界の認識の仕方が普通に戻るのではない。むしろ、すうっと自分の身体意識が巨大化してゆき、大野の雲という大きな自然と一体化してゆく。不可思議としかいいいようのない感覚だが、どことなく希望のようなものがあり、青年の出立を感じるといっても深読みにはならないと思う。