石川 美南


すべての菜の花がひらく 人は死ぬ 季節はめぐると考えられる

 

斉藤斎藤(『歌壇』2012年4月号)

 

 
7月9日分(http://www.sunagoya.com/tanka/?p=8174)に引き続き、斉藤斎藤の連作「死ぬと町」から。
 
前に書いた、「死ぬと町」というタイトルのわからなさや「ところ」の二重性、作中の「わたし」の不確かさなどは、もちろん創作上の不備などではなく、作者があえて狙っているものである。たとえば冒頭の、

 

  ららぽーとカーブしている三階の紳士靴売り場はカーブする
 
  スタバからトイレに向かう近道は紳士靴売り場をカーブする

 

にしても、同様の仕掛けが埋め込まれており、読者は、何となく居心地の悪い気持ちで連作を読み進めていくことになる。

 

  駅すぱあとによると14時52分が今の私の横浜の今

 

30首中唯一「私」という言葉が出てくる歌だが、ここでいう「私」とは誰で、「今」とはいつのことだろう。
 
駅すぱあと(などの路線検索ツール)は、特定の日時を指定して検索できる。過去に遡って指定することもできるが、よくあるのは、前に検索したときの履歴が表示画面に残っているパターンだ。ケータイでアプリを開くと、出発時間○時○分、出発地点△△、と表示が出ていて、ああ、そういえばこの前このアプリで路線を検索したな、その時、○時○分で△△辺りにいたんだったな、とぼんやり思い出す。それと同時に、○時○分の世界に自分を置いてきてしまったような、微かな不安が頭をよぎる。
 
……深読みを許してほしい。14時52分。これは、2011年3月11日の検索履歴なのではないか。地震が起きた直後の。なんとかして家に帰るための。

 

  そのように津波は起こる このように津波は起こると解き明かされる
 
  二〇四〇年、住宅の四割が空屋になると推計される
 
  首都圏に四年以内に直下型地震が起こる確率がある
  

いずれの歌も、「解き明かす」人、「推計する」人、「確率を計算する」人の姿を意識的に消去し、あくまでも一般論のような淡々とした口調で語っている。しかし、語られている内容は深刻だ。

 

長くなってしまったが、思えば本欄は「一首鑑賞」なのだった。もう一度、引用する。

 

  すべての菜の花がひらく 人は死ぬ 季節はめぐると考えられる
 
 
もしこれが、「菜の花がひらく 人は死ぬ 季節はめぐる」だったら、日本の春を寿ぎ、豊かな四季の中で生き死にを繰り返す人間の営みを肯定する、真っ当な(?)歌になっていただろう。けれども斉藤斎藤のシビアな現実認識は、それを許さない(「考えられる」という言い回しの不穏さよ)。
 
「すべての」菜の花はひらくのか。季節は本当に、去年と同じように巡ってくるのか。人の死は平等にやってくるのか。「わたし」の死は特別でありうるのか。一般的な死に、紛れてしまうのではないのか。
 
「死ぬと町」の奇妙な文体は、様々な疑問符を宙吊りのままで読者に手渡すために選ばれたのだと、私は思う。