どんよりと空は曇りて居(お)りたれば二たび空をみざりけるかも  

 

                                                                               斎藤茂吉『赤光』(1913年)

 

  見上げればどんよりとした雲の垂れる空があった。それに対して茂吉は「二たび空をみざりけるかも」と反応する。曇った空は憂鬱でもう見たくないという心情だろうか。それは共感できるが、それにしても「居りたれば」という明確な因果の付け方は独特である。その強い因果には、単に空を見なかったというよりも、決意して二度と見なかったというようなニュアンスがあるような気がする。結句の「みざりけるかも」も大げさな詠嘆であろう。茂吉はこの歌を詠んだとき、心から曇天が嫌っていたのではないか。一般的には、いいなとか、好きだ、気になるという感情は歌になるが、嫌だという感情は普通なかなか歌にならない。それを臆面もなく(?)ある種感情のおもむくままに歌にできるところが、また茂吉の個性であるように思う。

 

 わが體(たい)にうつうつと汗にじみゐて今みな月の嵐ふきたれ

 わがいのち芝居(しばゐ)に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも

 

   一首目、よく読むとやはり変てこな歌だ。自分の憂鬱と水無月の嵐がつながるという感覚は一般的にもよく分かるが、この歌にはアナロジーを超えて、「私の体から汗がにじむから嵐が吹くのだ」という因果関係のようなものがあるように感じるのは私だけだろうか。下の句「今みな月の嵐ふきたれ」という已然形終止は、ここで余情を残すぞという粘るような情感がたっぷりだ。自分の体の深いな感覚が、嵐がふくという天象にまでつながる。この因果に私は茂吉のふかい独断を感じる。

   三首目、上の句は自分の生き方や立ち居ぶるまいが芝居じみていると批判されたということだろうか。下の句「肥りゐるかも」は嫌味なまでの詠嘆であり、そのようなことをいう男への嫌悪感が表現される。男の言葉に茂吉はひどく煩悶したに違いない。しかしながら結局その煩悶の結果を男への嫌悪感に持ってゆくところが茂吉らいといえばらしいのであろう。嫌いという感情も歌になるのである。

 

照り透るひかりの中(なか)に消ぬべくも蟋蟀と吾(あ)となげかひにけり

 

   結句で「なげかひにけり」と突然にして茂吉のテンションは高まる。蟋蟀と吾はほとんど同一化されているようだ。この突然の心の起伏に読者はとまどう。戸惑いつつも、そういう茂吉の心の動きがどうしても気になる。そんな人を惹きつけるような魅力が彼の文体にはある。

 

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