石川 美南


ばら縷縷と続くばら園 ゆく先に花ある生(よ)などもはや思はぬ

蒔田さくら子『紺紙金泥』(1981)

 

「縷縷」は「ぼろ」と読みたい。baraとboro、子音は同じなのに、母音がaからoに替わっただけで、何だかえらい違いだ。

ばら園に咲き誇るばらたちも、花の盛りをすぎた後は、ぼろのように汚れて散っていくばかり。その様子を眺めながら、(自分の人生にも、これから先、もう花の咲き誇る時など来ないのだ)と語り手は考える。けれども、人生をことさら悲観している訳ではない。むしろ、毅然とした決意のようなものが伝わってきて、不思議と心地良い。

 

【訂正】上のように書いたのですが、複数の方にご指摘いただいたとおり、ここは「ぼろ」ではなく素直に「るる」と読むべきですね。先入観で強引な読みをしてしまいました。歌の語り手も、「花ある生など思はぬ」とは言っていても、「この先はぼろのよう」とは言っていませんね。大変失礼いたしました(そしてご指摘ありがとうございます!)。
気を取り直してもう一度解釈し直すと、ばらが綿々と続いていく園と、自分の「生」を対比させ、ばらとは別の道を行く自分を意識しているという感じでしょうか。こちらの解釈を採っても、やはり、語り手の毅然とした佇まいに変わりはないように思います。

 

紺紙金泥(こんしこんでい)写経にこころ励みたる日もありしかど救はれて居ず

膝つきて廊拭き居しが許し乞ふかたちに似ると立ちあがりたる

いふべきはいひつくししと飲む水の傷口洗ふごとく沁みゆく

 

「救はれて居ず」の言い切り。廊下を拭く姿が「許し乞ふかたちに似る」、と気づいたところで一首にするのでなく、きちんと「立ち上がる」ところ。言うべきことをちゃんと言った後の痛みも引き受けているところ。いずれの歌も、きっぱりとした佇まいが実にかっこいい。

その強い眼差しは、時として千里眼のように、ずっと遠くの世界をも照らし出す。

 

明けそめて港の船は灯を消しぬ 消したるひとの手もと眼に顕つ

島を占め舞ふ海猫の数知れずわれに貌似る一羽もあらむ

 

灯を消した人の手元に、海猫の貌に、ぴしっとピントを合わせているような明晰さが魅力的だ。