池水はすり鉢状に渇水し搏動(いき)のごときを岸辺に刻む

                       宮西史子『秋時間』(2010年)

 

 昨日あたりから、夏が本格的に到来したらしい。熱帯化の進む?日本の夏は熱中症の危険と隣り合わせだ。どうしても外を出歩かなければならない時には、私は自分に喝を入れてから外に出る。気合なしには35度の日を乗り切れない。そして鞄の中には必ず水分を持ち歩くことにしている。

 この歌の作者宮西氏は香川在住の人。毎年のように渇水に苦しむ地方である。よく照る夏の日々が続くと、ため池の水はどんどん減ってゆく。強い日差しによって蒸発するばかり池の水は、その跡を同心円状に幾重にも残しながら毎日すこしずつ減ってゆく。「すり鉢状に渇水し」はやや強引な言い方かもしれないが、池の底に残る水の跡がリアルに想像される。そして、「搏動(いき)のごとき」には、自らの住む地が渇水へと傾いてゆくときのじりじりとした感覚や気分もあり、すとんと落ちる表現になっていると思う。水道水であれ、ミネラルウォーターであれ、私たちにとって水はお金さえあれば無限に買えるもののように錯覚しているけれどむろんそうではない。歌からすこし離れるかもしれないけれど、水源の動向を身近にリアルに感じる感性は重要だと思う。水源は遠くにあって、無限に供給してくれるものではないはずなのである。

 

出勤の朝(あした)の顔が風に冷ゆビルの側壁まはりたるとき

 

立てかけし蝙蝠傘より雫して地上の水にかへりゆく雨

 

五十四の誕生日けふ秋冷えのパイプ椅子のうへ薪能見つ

 

 日常生活を題材にして歌われた作が多いが、丁寧にものを見つめたり感じたりする感性が印象的である。一首目、ビルの壁面を回ると急に風向きが変わったのだろうか、「顔が風に冷ゆ」がうまいと思う。単に寒さを感じたというだけでは歌にならないだろう。「顔」で寒さを感知したというところが、印象的であり読者に主体のリアルな感覚を手渡す。三首目、「秋冷えのパイプ椅子」も腿に感じた冷たさがすっと伝わってくる。これも「冷えたパイプ椅子」ではなく「秋冷えのパイプ椅子」であることが重要だろう。

 

マンションのベランダに一つ開かれて黒き傘あり失語のごとし

 

はりはりと散りゆく辛夷 咲ききつてもう嘘なんか吐(つ)けなくて散る

 

置き忘れられしこんやくレジ台にいぢいぢ拗ねて夕暮れにけり

 

 一首目、黒き傘が「失語のごとし」という比喩は面白い。雨に濡れたものを乾かすためだろうか、ベランダに傘が広げられている。真っ黒な傘なのだろう。その黒に主体の目は吸い付けられる。赤や黄色の傘を持つとき、人はすこし気分の高揚もあるかもしれないが、傘における「黒」という選択には全くそういうものはないだろう。目立ったり主張したりすることのない色が黒であり、それはまるで「失語」のようだというのである。傘の黒と失語が結びつく感覚はよく分かる。三首目は、やや機知が効いた歌だが、このような作品も楽しい。

 

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