両親が出会ったという群青の平均台でおやすみなさい

笹井宏之『ひとさらい』(2009)

 
若い男が一人、長い長い平均台の端に足をかける。両足を揃えて立ってみると、台の上は思っていた以上に細く、ほんの少しバランスを崩しただけでも転げ落ちてしまいそうだ。男は両手を横に広げ、足元を見つめながらそろそろと歩いてゆく。ちょうど半分近くまで来たところで少し顔を上げると、反対の端からまっすぐこちらに向かって歩いてくる若い女の姿が目に入る。その瞬間、男は(あれは運命の相手だ)と思う。一方の女も、足の震えを必死で堪えながら(あれが運命の相手だ)と考えていた。そのようにして二人は出会い、結婚し、そして自分が生まれてきた。

……もちろん、そんな出会いが現実にあった訳ではない。けれども、寝しなの空想の中に浮かび上がる群青の一本道はやけに懐かしげにゆらゆらと揺れ、妖しくも深い眠りを誘う。そういえば〈眠り〉とは、〈私が生まれる前の世界〉とどこか似ていないだろうか?
 

 
受け取ったイメージを無理矢理文章化してみたところ上のようになったが、ドラマチックに説明しすぎて、歌の味わいを損なってしまったかもしれない。一首の佇まいはもっとささやかで、子守唄のように柔らかい。
 

  美しい名前のひとがゆっくりと砲丸投げの姿勢に入る     『てんとろり』
 
砲丸投げの選手にとって、「美しい名前」を持っていることは何の武器にもならない。けれども、ここで大切にされているのは、砲丸投げの記録ではなく、砲丸投げをする前の「姿勢」の美しさだ(何なら姿勢をとるだけで、球は投げなくたっていい)。

もしかしたらこの歌は、本当に砲丸投げの試合を見ながら(そして、選手の中に美しい名前の一人を見つけて)作られたのかもしれないけれど、そういった文脈はすっぱり削ぎ落されて、この世の〈美しさ〉にだけ光が当たっているように見える。

ほとんど冷酷と言ってもいいほど潔いその手つきが、一首の危うい魅力になっていると思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です