棚木 恒寿


はすかひに簷(のき)の花合歓(ねむ)うつしつつ化粧鏡は昏(く)れのこりたり

                      明石海人『明石海人歌集』(2012年)

 

明石海人は一九〇一年、沼津市生まれ。恵まれた家庭環境の中で、文学や絵画、音楽に親しみ、家庭生活においても順境であったが二五歳のとき、ハンセン氏病を発症。ながい療養生活ののち三七歳で生涯を終えた。歌集には『白描』(1939年)がある。引用歌は、岩波文庫『明石海人歌集』より、『白描』から漏れた歌群より引いた。

化粧鏡に簷(のき)のあたりにある合歓の花が斜めに映っている。ベッドから起き上がる元気がないのだろうか、主体は化粧鏡をただいっしんに眺めている。ピンクの鮮やかな合歓の花を映しつつ、鏡の中だけが異常に美しく、別世界のように暮れ残ってゆくのである。「うつしつつ~昏れのこりたり」という叙法には、夕暮れの進行してゆく時間の経過が皮膚感覚のように感じられ、また最初は鏡の中の合歓に注目していた視点が、下の句では鏡と夕暮れを眺める一歩引いたところへと移動しており、極めて印象深く映像として鮮やかだ。身のめぐりの風景を描きつつ、しかしどことなく異化してゆくような感覚は繊細でふるえるようだ。男性歌人による化粧鏡の歌は珍しい。続く一首に「昏れのこる化粧鏡の合歓の花そよぎに遠きちまたのよどみ」がある。

 

鍵盤にけづられてゆく砲身はイルクツクあたりの湖(うみ)を匂はす

 

メンデルスゾーン作、ホ短調ヴァイオリン協奏曲を聴く
白日(ひる)の空しなひつつ飛ぶ投槍の秀にはひそむか聴神経節

 

聴覚に刺激されて、繊細な神経には見えないものも見えてくる。突如登場する「けずられてゆく砲身」とは何だろう。頭のなかに不意に浮かんだイメージであろうが、なぜか妙な手触りがあり、イルクツクの湖を指しても何の違和感もない。「しなひつつ飛ぶ投槍の秀」も同様だ。しびれるようなイメージの飛翔といえよう。