棚木 恒寿


「行つて来ます」言はずに登校したる子の茶碗のねばねばいつまでも洗ふ

 

                    山口明子『さくらあやふく』(2012年)

 

 「行つて来ます」とも言わずに登校していった我が子。心にわだかまりを持っているのか、何か秘密でもあるのか。とりあえずは、母はその実を質さずに茶碗のねばねばをいつまでも洗っているのである。「茶碗のねばねば」は物理的なねばねばでありつつ、子の心の中のねばねばと重なるであろう。母は子の心のねばねばにいつまでも長く触れるばかりだ。母と子の関係や距離の息遣いが、この「茶わんのねばねば」という比喩・擬態にあると思う。この歌の含まれる一連には「子のいぢめらるる理由を探す朝雪原のつぶ無数にひかる」とあるように、自らの子供のいじめに際して読まれた作であり、単純なものではない。

 

  「あとがき」によると、山口は公立中学に勤務する教員であり、母としても職業人としても学校に向き合う日常であるらしい。

 

 一時間半わが予習せし授業より魅力あるらし夫婦のとんぼ

 ふつと気を緩めればこぼれ落ちさうな涙を噛んで子とにらみ合ふ

 いもうとと高らかに笑ふ声聞ゆ不登校の子の家の玄関

 生きてゐるとんぼをテープで壁に貼るいかなるストレスこもるかその手

 禁止する確認事項ふえてゆく職員会議にふとる夏蛇

 

  一首目などは、ほほえましい風景と言えるかもしれない。せっかく時間をかけて予習して臨んでいる授業だが、生徒はふと入ってきた夫婦のとんぼに心を奪われてしまう。しかしながらこのような牧歌的風景は続かない。二首目では、こぼれ落ちそうな涙を耐えて生徒とにらみ合い、四首目では生きたままのトンボをテープで壁に貼る生徒に直面する。下の句の「いかなるストレスこもるかその手」はやや説明しすぎの感がないわけではないが、「その子」ではなく「その手」なのであり、現場に付いた即物的なリアリティーが感じられる。対して五首目の「夏蛇」は比喩であろう。行事か何かの打ち合わせだろうか、事の細部詰めてゆくと、禁止事項ばかりが増えてしまう。禁止するのは教師であるが、それが増えれば増えるほど負の感情も堆積してゆくのである。そういう負の感覚を「ふとる夏蛇」という比喩で捉えているのであろう。

 

逆子なる子のいくたびもわが肉を蹴る屋根雪の次々と落つ

 赤き雨にはかに肌に降り出せる幼を抱けば火のひほひせり

 秋山に女ざかりの神住みて冷気吸ひつつ美をきはめゆく

 

 一首目は妊娠中の歌であろう。逆子である子が腹を蹴るたびに、屋根の雪が次々と落ちてゆく。作者は岩手在住とのことであるが、落ちる雪は決して淡い雪ではない。とことん厳しい冬の雪と、腹を蹴られる痛みとを主体は重ねてゆく。それは繊細な感性というよりも、どんと腰を据えて世界を感じ取ろうとする感覚だ。二首目の「赤き雨」「火のにほひ」、三首目の「冷気吸ひつつ美をきはめゆく」、いずれも大胆でダイナミックなものの捉え方であるといえよう。

 

また、集の後半には東日本大震災に際しての歌が収めてられている。

 

使ふ時来たかと夫の持ち出せるウェディングキャンドル余震に揺るる

 停電の凍れる闇を震はせる音の兆しにいくたびも醒む

 ガソリン切れの日常にふと届きたる郵便物にほそき日の射す

 カーナビは知人の宅を不意に告ぐ がれきのみなる道走るとき

 不意に来る死のかたちしてこの夏をくづるる海の街の墓石は