熱を病むわが子の脈をさぐりつゝ窓ごしに見る日まはりの花

                      相馬御風『御風歌集』(1926年)

 

 

 夏風邪に臥せっているのだろうか。熱のある子供の脈を探りつつふと窓の外を見ると日まわりの花が咲いていた。それだけの歌であるが、どこか御風独特の感覚の繊細さが感じられる。子供の柔らかい肌を指先に感じつつ、窓の外に目を移す。「窓ごしに」とあるが、ひまわりの花と窓のこちら側の世界とはどこか隔絶されているような気配だ。かんかんと照る夏の盛りを謳歌するひまわりの見ながら、主体はしずかに子供に愛情をそそぐ。圧倒的なパワーの夏のことが、窓を境に遠い世界のように感じられる。こちら側にあるのはプライベートな親子の情緒の交感である。

 

 

 『御風歌集』は二十三歳で処女歌集『睡蓮』を出版した後、あえて約10年間の歌を捨てて三十四歳から四十四歳までの歌を収めた第二歌集。東京から郷里糸魚川に帰住してからのおよそ十年間の作であり、浪漫主義に彩られた処女歌集とくらべるとプライベートなものへと歌は寄っているが、そのぶん感覚のセンサーが細かく発達しているような気がする。

 

 

縁側にわがひるねしてありし間に鶏(とり)は卵を生みにけるかも

 

 秋ちかき頃

ぬか漬けの茄子の歯さわり今朝をふとつめたくおぼゆ秋来たるらし

 

 

 「わがひるねしてありし間」の茫漠とした時間の流れは、鶏が卵を生むのにかかった時間でもあった。この二つの時間が付き合わされることで、時の流れがくっきりとする。「茄子の歯さわり」で「今朝をふとつめたくおぼゆ」という体感には濃いリアリティーがある。

 

 

まよなかの月にも似たる夕がほの白くさびしき花のいろかも

 

蒼白くほの光りする浪の穂をやみ夜の底にしばし見つめつ

 

はてもなき闇の奥より寄せて来る蒼白き波を足もとに見つ

 

 「月にも似たる夕がほ」「ほの光りする浪の穂」「はてもなき闇の奥」などは、日常につきながらもどこか幻想的な感覚が入っているだろうか。

 

 

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