石川 美南


あちこちで瞬くひかり人の役に立ちたいって顔をかき分け進む

吉野亜矢『滴る木』(2004)

 

2月に棚木さんも取り上げているが(https://www.sunagoya.com/tanka/?p=7068)、やはり私もとても印象に残っている歌で、街を歩いているときなど、ふと思い出してどきっとすることがある。

新入社員が街に溢れる春、あるいは、強い日差しを弾くように人々が働く夏だろうか。きらきらと輝く表情、そこにわれ知らず浮かぶ自意識を、語り手は「人の役に立ちたいって顔」だと感じる(私ハ、アンナ顔シテナイ)。そして、そうした顔と正面からぶつからないよう、人混みを搔き分け掻き分け進んでいくのである。ただし、「役に立ちたい顔」の人に対して、強い嫌悪を示している訳ではないし、高みから見下ろして評価している感じもない。あくまでも同じ目線に立ちながら一定の距離を保ち続ける、その冷静なスタンスが特徴的だと思う。

こうした距離感は、「君」(恋人?)について歌う場合も変わらない。

 

  たわむれに検索すればレスラーも科学者もいる君の名前は

 

なんとなく恋人の名前(仮に「高史」さんとしておこう)を検索してみて、同じ名前のレスラーや科学者が出てくることに気づく。それだけのことを言っている歌だが、「君」との距離の取り方に独特なものがある。恋の場面において、「君」は他の人とは交換不可能な、唯一の存在として認識されることが多いように思うが、検索画面上では、多くの「高史」さん(仮)と横並びになってしまう。しかし、「レスラー」「科学者」というチョイスがどこかユーモラスなために、よそよそしい印象は受けないのである。

 

  気まぐれな猫というよりなつかない犬だねきみは傘を干す朝

  吊るされた服の間をふと別れふと落ち合いて店を出るまで

  遠いほど蒼くなる山会うときはいつも払ってくださるあなた

 

「気まぐれな猫」と「なつかない犬」の違いは実のところ微差でしかない。君と私の間には、(大雨の中を二人で帰宅した翌朝でさえも)ほどほどの距離が保たれており、そうした関係性を、語り手は静かに肯定しているようである。

なお、

 

  風呂の湯は素数に設定されていて私は1℃上げてから出る

 

については、魚村晋太郎さんの名解釈(https://www.sunagoya.com/tanka/?p=1282)がある。