奥山に淋しく立てるくれなゐの木の子は人の命とるとふ

正岡子規『竹乃里歌』

 

キノコ狩りをテーマにした短歌といえば、なんといっても正岡子規の「菌狩」。飯沢耕太郎編『きのこ文学名作選』(ラインナップも造本もとにかく素敵な本)でも紹介されており、キノコ文学界隈(?)ではお馴染みの一連だ。それゆえ、1904(明治37)年に出た『子規遺稿第一篇 竹の里歌』(=自筆歌稿から弟子たちが抄出した初期ヴァージョン)にも当然収められていたはずだと勝手に思い込んでいたのだが、改めて読み返してみたら、10首ともさっくりカットされていた。仕事の合間に図書館に走り、『子規全集』の完全版を確認していたため本日も更新が遅れて本当に申し訳ありません。

 

さて、引用した一首は、キノコの存在感を端的に表している。山の奥にぽつんと立つ紅いキノコ。その姿は儚げだが、一口齧れば人を死に至らしめる。格別不気味に描くでもなく、かといって格別愛らしく描くでもなしに、「木の子」というものを純粋に面白がっているような口ぶりが楽しい。

 

  茱萸の實のとをゝの一枝かざしもち蕈狩り男山はせ下る

  誰が叫ぶ聲の木玉に鳥鳴きて奥山淋し木の子狩る頃

  蕈狩りの労れて眠る枕邊に秋の香満ちて笠立てる見ゆ

 

1首目、「とをを」は「たわわ」の意味。「蕈狩り男山はせ下る」という下の句の、歌舞伎めいた格好良さはどうだ。キノコ狩りのわくわく感、ここにあり。

2首目は、キノコに夢中になりすぎてすっかり山奥に入り込んでしまった時の寂しさが、しんしんと伝わってくる。誰かの叫び声も、それに応えるように鳴く鳥の声も、何だかひどく遠い。

3首目に至っては、夢の中でもまだキノコ狩りの続きをやっている気配。

 

正岡子規は、物事を面白がる能力に誰よりも長けていた人だと思う。目にしたもの、耳にしたものの面白さを予断なしにさっと受け入れられる、開かれた心の持ち主。その魅力は、このキノコ狩りの一連でも存分に味わうことができる。

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