笹原玉子『われらみな神話の住人』(1997)
あるいは文化によって異なるかもしれないが、少なくとも私は、遠い山並を指すときも夕焼けを指すときも、たいてい同じ指を使う(薬指や小指を使って物の在り処を示すことはない)。
何でも指せるその指は、しかし古くから「人をさす指」と呼ばれてきた。指の名前を思うとき、語り手の脳裏には壮大なビジョンが広がる。遥か空に浮かぶ星座も、高らかに掲げられた戦旗も、言ってみれば人間の思考や欲望が造り上げたもの。人差し指をまっすぐ突きつけるとき、その先にあるものは、人類が紡いできた長い歴史の一端なのだ。
「このゆびは」と、自分の身体を見つめるところからスタートして、「名付けられ」以降で勢いよくジャンプする、スケールの大きさが心地よい。「星座を指した、戦旗を指した」という畳み掛けるようなリズムもなかなか効いていて、だんだん、「星座を指した、戦旗を指した、神殿を指した、ネオン街を指した、灯台を、裁判所を、高層ビルに突入する飛行機を……」と、このまま完結せずにいつまでも歌が続いていくような気がしてくる。
雲はすべて切れ端でできてゐる 体系を求めるな男たち
忘却、この新鮮な友人よ霧函のそとは霧ばかりです
目で見える、心のなかで見えないものをさがすのが五月の宿題
横顔は端正だつた かたはうを時間(とき)の熱砂で焼かれやうとも
歌集には、「霧函」、「五月の宿題はむつかしい」、あるいは「浮島便り」など、心をくすぐる魅力的な章題が並んでいる。ただ、これらの歌を「物語的」という言葉でくくるのは、ちょっとためらわれる。笹原玉子の短歌の面白さは、「ひとつのストーリーを語りきること」よりも、「決して完成しないパズルのピースを次々に見せていくこと」にあると思うからだ。体系を厭い忘却を友とする、その自由な哲学が、歌に疾走感を与えている。