吉野 裕之


内臓のひとつかすかに疼きゐる春の地球に雨降りそそぐ

志垣澄幸『日向』(2008年)

 

白魚(しらうを)のかぼそきいのち飲み干してまだ宵ながら宴会に倦む

おのが齢問はれてあれば躊躇(ためら)へりいまだ素直に老いきれずゐる

放し飼いのごとく人らが野に群れてゴールデンウィークの陽をあびてゐる

笑ひゐる女なれどもよろこびにあらざる貌と思ひいたりぬ

ガリ版のありし頃より終身刑のごとくつづけりわが教師職

 

違和感。何に対する違和感か。自己、といってしまえば簡単過ぎるだろう。おそらく著者には、自己も含めた世界全体に対する違和感があるのだ。しかしそれは、静かに語られる。

 

内臓のひとつかすかに疼きゐる春の地球に雨降りそそぐ

 

内臓と地球。ともにとても近くにある具体の存在でありながら、確かに掴むことが難しいもの。その意味で、非常に抽象的な存在である。小さな地球としての内臓(=身体)。大きな内臓(=身体)としての地球。著者は、2つを抱え込んでいる。深い存在としての内臓。広い存在としての地球。これら2つを抱え込むことは、とても重いことだ。

著者は、自ずとこうした存在を捉えてしまうのだ。だから、ごく普通の日常=世界に違和を感じるのだ。しかし、そこで生きている自己。孤独を避けることはできない。孤独とは、痛み。その痛みが静かな語りを生みだしているのだと思う。

 

見てゐしが我慢できなく食(たう)べたる大福餅が胃腑におちゆく

むづかしき世となりにけりノンシュガーの喉飴一つ舐めて応へむ

小池光が好きで寝ころび読みゐしが小池光が重たくなりぬ

 

一冊からさらに3首引いた。しなやかな著者である。このしなやかさが、自らを支えているのだと思う。