頭(づ)のうへを蜻蛉つーい、つーい飛ぶ明日といふ日はあさつてのきのふ

喜多昭夫『青霊』(2008年)

蜻蛉は初夏から秋にかけてみられる。
とんぼ、あきつ、せいれい、いろんな読み方があるが、一首の場合、とんぼう、と読みたい。
赤とんぼと呼ばれるもののなかで、ナツアカネは夏を通して平地を離れないが、アキアカネは夏の間を高原や山岳地帯で過ごし、秋になると平地にもどる。
お盆のころ群をなして現れる蜻蛉を祖霊の姿と考える地方も多い。
俳句では単に蜻蛉といえば秋季で、糸蜻蛉や川蜻蛉は夏季。
本州の異称を秋津州(あきずしま)というのは、神武天皇が国見の折に山並の続く様子を「蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」と言ったと、神武紀にあることによる。
臀呫とは、つながって飛ぶ、あの蜻蛉の交尾のことである。

蜻蛉のなかでも特にヤンマの類は、同じところを繰り返し飛ぶことが多い。
子供の頃、小いさな石粒をふたつ凧糸でつないでヤンマの軌道に投げると、餌の羽虫と見間違えて向かってきて糸に絡まった。
蜻蛉を虫籠にいれるのはあまりに窮屈なので、すぐはなしてやるのだが、そんな蜻蛉釣りをする子供の姿も最近は見ない。

明日は、明後日からみた昨日である、という下句は発見である。
未来は遅滞なく現在を訪れ、現在は刻一刻過去になる。
現在は過去の集積だ、ともいえるし、過去なんて現在の幻想の一部にすぎない、ということもできる。
しかし、一首に詠われているのは、そんな観念的なことではない。

蜻蛉の自在に空をただようさまにかさねて、暢気者のことを極楽蜻蛉ということがある。
やや軽蔑的なニュアンスの言葉だが、思い煩ったって仕方がない、そう思うことで体が軽くなることだってある。
思い煩う明日も、ほんの一日で昨日のことになってしまう。
無常観と背中合わせの、爽やかな達観の一首である。

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