小池純代「短歌ヴァーサス」第二号(2003年)
*一首全体に「いつまでもあめがふるのはいつまでもいきてゐるのがいやだからなの」のルビ。
うんうんと唸りうなって出てきたか、それともすっと出てきたものか。くりかえし舌にのせたいうつくしさ、と鑑賞のことばがわれ知らず5・7・5・7・7になって出てくるのは、この歌を含む「もんどり問答集」30首の韻律がなめらかで調子いいからだ。歌にさそわれ、頭のなかが5・7のリズムでうごきだす。
限りなく限りない雨が降っている。降りながら雨は、限りのある生というものを厭って厭いぬいている、と歌はいう。ことばを変えれば、ルビがいう通り「いつまでも雨が降るのは、いつまでも生きているのが嫌だからなの」ということだ。ルビもまた一首の歌になっている。この技、このウィット、この遊び心。ああ短歌を読むって、こんなに楽しいのかと思う。歌の意味内容は、思いきり大上段に構えていえば「生の深淵に迫る」ものだが、それをこんなふうにさらりと詠う。
一連にはこういう歌がならぶ。
げに人は劫火のなかにゐるものをつねにしあれば気づかざるのみ
*ルビ「そんなんであつくないのときかれてるそんなんていつもわたしこんなん」
人は火に還りゆくべしひとすぢのほととふほのほゆ生まれ来しかば
*ルビ「どこへゆくのどこからきたのそこはどここことそことはどこがちがふの」
なぜですかときかれてそれはなぜですかと問ひかへすのはなぜなのですか
たのしみのうらにはりつくかなしみがいやだねいやだねたのしみのたね
何といっても、がんばって作ってみましたという苦労の手つきが見えないのがいい。作者がふんふんと、鼻唄まじりで作っている感じがある。ジャズのスキャットを聞くのと同じだ。サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドのような上手が、その場の気分とノリで、ちゃらちゃらーっとやる。下手がやると必死が見えて興ざめだ。
気に入った歌をいくつか暗記しておいて、湯船につかりながら、あるいはどしゃぶりの雨の中を歩きながら、ストーヴに灯油を入れながらつぶやきたくなる。そういう一連だ。こういう歌を成すに到るまで、どれほどの修練と鍛錬があったのか。
『雅族』『苔桃の酒』『梅園』の歌集を持つ1955年生まれの小池純代は、短歌から遠く離れてしまったようだ。「もんどり問答集」以後、少なくとも私は作品を目にしていない。残念きわままる。