馬の屁のやうな匂ひの風が吹きぽつりぽつりと雨が降り来ぬ

時田則雄『ポロシリ』(2008年)

 

つまりこの電信柱はわれの死の後もかうして立つてゐるのだ

十勝野は神神の遊ぶ庭(カムイミンタラ) 春の風すべつてころんでゐる午後である

機械油の染みし軍手が日毎増え春がだんだん膨らんでくる

あぢさゐが雨にけぶれる午後である 両手両足たいくつである

八トンの麦を積みたるトラックが右折す左にぐらりと傾ぎ

馬鈴薯とともに掘られし石たちが朝の光を浴びて綻ぶ

歳月はものの形を変へるなり右腕長し左目小さし

ぽつかりと口を開きて眠りゐる母かな穴のやうなその顔

 

一冊を通読して思うのは、5・7・5・7・7といういわゆる定型の勢いの清々しさ。著者のリズムと5・7・5・7・7のリズムとの親しさ、ということだと思う。日常の、というより、生きていることそのものがことばに置き換えられていく作品たち。それをしっかりと支えているのがこのリズムであり、日常を正面から捉えていく意志は、日常をまるごと引き受ける覚悟に支えられている。

 

馬の屁のやうな匂ひの風が吹きぽつりぽつりと雨が降り来ぬ

 

勢いは、しかし同時に、繊細な感覚を内包している。「馬の屁のやうな」という意表を突いた比喩ではじまりながら、風と雨をていねいに拾い上げていく。そして結句まできたとき、読者は意表を突いた比喩が実はとても自然な表現であることに気づく。風や雨を詠みながら、一首はいわば著者の身体なのだ。風や雨は、著者の外部であり、同時に内部なのだと思う。外部として向き合い、内部として抱える。そんな対象との関係のあり方が、とても心地よい。「ぽつりぽつりと」というなんでもないような描写が、とてもいきいきとしている。

 

人参を包めるやうにけぶりゐし雨遠のきてまた蝉時雨

 

もう一首。人参とけぶる雨の色彩の美しさ、そして視覚から聴覚への移動の巧みさ。繊細さは、しなやかさのことだと思う。

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