別に嫌な人ではないが演出の方針なればギラギラと撮る

矢部雅之『友達ニ出会フノハ良イ事』(2003年)

歌集の帯に「報道カメラマンの詠む現場!!」「未開拓の試み 第一歌集」とあり、佐佐木幸綱の跋に「プロの報道カメラマンで本格的に短歌を作った人ははじめてだと思う」とある。もしも矢部雅之が、塚本邦雄や岡部桂一郎のように生業は歌の素材にしないタイプの作者だったとしたら、帯の文句も変わっていただろうが、幸か不幸か、いや短歌界にとっては幸いなことに、この人は生業に取材するタイプだった。いわゆる現代短歌を読んでいると、教師と生徒の関係など教育現場の事情にはくわしくなるが、報道現場の事情には疎いままとなる。

 

歌は「ギラギラと」という章の中の一首だ。場面はテレビニュースの取材現場だろう。カメラマンの<わたし>が撮るのは、一連の中で読めば政治家だ。<わたし>としては特に嫌いな相手ではないが、演出家の指示にしたがって、ギラギラと「嫌な人」に見えるように撮る、と歌はいう。テレビ画面には「嫌な感じ」の人物が映るだろう。もしも同じ相手を、演出の方針により「いい人」風に撮れば、テレビに映るのは「いい感じ」の人物だ。

 

「別に嫌な人ではない」という口語調フレーズで詠いおこし、6・7・5・7・7のリズムの中「演出の方針」「ギラギラと」など的を射たことばを連ねて、複雑な事情をさらりと読み手に伝える。デビュー歌集にしてすでに安定した技量をもつ作者だった。
一首の前と後には、つぎの歌が置かれる。

ねちねちと質問をする記者の声に合はせねちねちズームインする

広角のレンズで思ひきり寄ればたちまち歪む代議士の顔

 

「客観的」な報道記事というものが存在しないのと同様、「客観的」な報道映像は存在しない。新聞テレビの報道は、読者視聴者をしかるべき感想に導くように作られる。そういうことを歌は教えてくれる。いや、そんなことは短歌に教えてもらわなくても知っている、とあなたはいうかもしれない。新聞やテレビがウソをいうのは常識じゃないかと。だが、どうだろう。仮にこの歌の代議士をテレビで見たとする。「なんか嫌な感じのやつだなあ」とは思わない、といいきれるだろうか。あなたが短歌の実作者だとして、その印象を歌に作らないといいきれるだろうか。マスメディアの影響力はあなどれない。

 

また演出以前に、そもそも報道されるか否かという問題もある。たとえば、2001年9月11日の同時多発テロでは、アメリカ側の被害状況が日本でもくり返しテレビ報道され、テロを憤る短歌が多く作られた。対して、アラブ側がテロに到った(おそらく多大な被害を含む)状況はほとんど伝えられず、アメリカを憤る短歌もほとんど作られなかった。
報道の現場に身を置く作者の歌にふれ、読み手の思いはひろがってゆく。

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