吉野 裕之


排泄の音が聞こえる静けさに肩のしこりをほぐさむとする

大島史洋『幽明』(1998年)

 

たちまちに塵(ごみ)と積まれて境内の銀杏の黄金(こがね)が消えてしまいぬ

沸騰にいたりしポットはたくましき躍動ののち笛を鳴らしぬ

あたたかき陽ざしのなかに見ておりぬ紅梅にくる目白の群れを

ずたずたになるとは比喩にすぎぬから声をおさめて立ちいたるのみ

どぶ板の間(あい)より頭を突き出して鼠が浮かぶヘッドライトに

聞くような聞こえるようなさざなみの言の葉のなか目を閉じている

前をゆく車に悪態つきたるはわが妻に似て妻にあらざる

 

『幽明』は、著者49歳から51歳までの作品を収めた、大島史洋の7冊目の歌集。ひとりの生活者のつぶやきが、短歌というかたちを得て、確かな認識となっている。認識は力。けっして派手ではないけれど、だからこそささやかに、読者にひとりの生活者であることとなにげない日常の大切さを思い出させてくれる。力とは、たとえばこうした働きのこと。

 

排泄の音が聞こえる静けさに肩のしこりをほぐさむとする

 

自宅だろうか、あるいは旅先のホテルかもしれない。いずれにしろ、ソファにでも座ってくつろいでいるのだろう。おそらく妻の、排泄の音が聞こえる。雨の音のように、風の音のように、あるいは町の音のように、ふと耳に入ってきた音。そして、部屋がとても静かであることに気づく。なんでもないようなことだが、その静かなようすがうれしい。

「肩のしこりをほぐさむとする」。肩のしこりをほぐしているのではない。ほぐそうとしているのだ。詠まれているのはほぐす動作ではなく、ほぐそうとしている心のありよう。つまり、一首の焦点は部屋の静かなようすにある。静かさではなく静けさ。まさしく、著者の心のありようが提示されている。

日常にふっと生じた静けさ。それは、たんに物理的なことがらだけではなく、さまざまなもの/こととの関係が生み出す音にかかわることがら。こうした静けさを、生理が生み出す音から感受する著者の耳=身体こそ、健やかな生活者のものである。