吉野 裕之


日常のわが段落に埋めおきし球根がけさ洎夫藍に咲く

高橋幸子『花月』(1983年)

 

忘れ置きたる手鏡の反射光とぞ知るまでを魂(たま)と居りにき

銀行のソファに待てる数分を無瑕な穴のやうなる時間

四肢の爪のびてをりけり湯上りのいのちすみずみまで愚かしく

 

歌集『花月』に、高橋幸子はたとえばこうした作品を収めている。いずれも佳作だ。しかし、なにか分かりにくさが残る、そんな作品である。こんな感じ、という把握はできるものの、では、「魂と居りにき」とはどういう状態か、「無瑕な穴のやうなる時間」とはどのような時間か、「いのちすみずみまで愚かしく」とはどういう思いか、と問われると、そのありようを特定していくのは難しい。むろん、特定しなければいけないわけではなく、それが難しいからこそ魅力的なのだ。

 

それは去年(こぞ)あるひはきのふ白菊の下葉の枯れに夕茜さす

塩小路わたらむとして風花にあひたるいつの古きてぶくろ

のがしたる電車が後尾振りて去るいつの続きのやうな光景

 

さらに特定というキーワードを使えば、高橋は時間を特定しない。「去年あるいはきのふ」「いつの」といったことばで、時間を曖昧にしておく。曖昧にすることによって、時間が膨らみをもつ。膨らみは、より多くのもの/ことを抱え込んでいく。そうして抱え込んだもの/ことが、「いま・ここ」を豊かにする。

 

日常のわが段落に埋めおきし球根がけさ洎夫藍に咲く

 

「日常のわが段落」。こうした2つの意味で、特定できないフレーズだ。段落とは、物事のあるまとまりや区切り。では、日常のわが段落とは、どのようなまとまりなのか、区切りなのか。そして、この段落に球根を埋めおいたのだから、その時間があるはずだ。しかし、捕まえようとすると逃げていってしまう。なんだかもどかしい。しかし、なんだかとても清々しい。

この清々しさが、おそらく球根というものの本質なのだと思う。いや、球根という「もの」ではなく、球根という「こと」。球根は可能性を抱いている。ここで詠まれているのは花ではない。詠まれているのは、球根が抱いている可能性。球根は育っていく。それは、可能性が具体のかたちになっていく過程である。そしてある日、ふいに洎夫藍に咲くのだ。そう、洎夫藍が咲くのではなく、洎夫藍に咲くのである。

日常のわが段落とは、高橋の身体のことだろう。身体とは、肉体と精神のこと。つまり、日常を営む主体の具象と抽象の2つの側面。高橋は、自らの身体で球根を育む。可能性に対する敬意と謙虚さが、それを支えている。