『わが告白』なる自著の上に降りそそぐ批判の渦の中の春先

岡井隆「短歌」(角川学芸出版 2013年1月号)

*「上」に「へ」のルビ。

 

短歌総合誌に毎月掲載される新作の短歌は、だれに読まれているのだろうか。短歌を作っている人、むかし作っていた人、これから作ってみようかという人、作ったことも作る気もないけれど読むのは嫌いじゃないという人。

 

さて歌は、「立ち上がる時」一連の中に置かれる。『わが告白』というタイトルをもつ自著の上に批判がふりそそいでおり、春の始めに<わたし>はその批判の渦中にいる、ほどの歌意だ。

 

短歌の雑誌を初めて買った人、作者を知らない人は、どう読むか。素直な作りの歌なので、いま上にのべたような言葉どおりの意味はわかるはずだ。『わが告白』を、作者の歌集タイトルだと取る人もいるかもしれない。ともあれ、短歌というのは自著の評判を素材にしても構わない、「自意識の前面押し出し」ありの文芸であることを理解するだろう。

 

短歌の雑誌を毎月読む人、『わが告白』を読んだ人、作者を知っている人は、どう読むか。たとえば私はどうかといえば、一読して噴きだした。岡井隆のサービス精神に拍手、である。ここまで律儀に自分の評判に反応してくれる人は、短歌界広しといえどほかにない。2011年刊行のエッセイ『わが告白』には、賞賛もあったはずだが、批判の方も少しばかりあった。

私が短歌の友人たちと同書について意見交換した限りでは、「批判」の内容は四つに大別できる。1. 原子力発電を支持する一節への反論、2. 「告白」と銘打ちながら韜晦とはぐらかしだらけの看板倒れである、3.  著者に書かれた元妻に近しい人間にとっては、一方的な言い分であり許容できない、4. 金井美恵子による揶揄の芸をきわめた論考<たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する>。

 

自著を批判された者の態度としては、それについて何もいわない行き方があり、たいていの歌人はこちらを選択する。知らん顔で通す。大人の道だ。しかし、岡井隆は断固そうしない。そうしたくない。「自著の上に降りそそぐ批判の渦の中」などというフレーズを考えだし、歌に仕立てて発表する。自著タイトルにしても、ことさら出さずに、<わが書きし著書のめぐりに降りそそぐ批判の渦の中の春先>などとする手もあったし、雑誌発行時の短歌読者にはこれで十分通じる。しかし、そうしない。したくない。<『わが告白』なる自著>と身も蓋もなくそのものズバリをいう。いってしまう。それが岡井隆だ。

 

岡井一流の行き方には、自らの恋愛の進行状況に取材した歌をその都度「明星」誌上に発表し、恋愛相手にも同じようにさせた与謝野鉄幹に通じるものを感じる。

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