吉野 裕之


バスの中誰も声せず幼きがあーあとふかきかなしみもらす

玉井清弘『六白』(2001年)

 

休日ではない日の午後、混んでいるというほどでもなく、座っている人もいれば立っている人もいる、そんなバスの車内の情景を思う。

誰も話をしていない。窓には明るいひかりが射している。静かな車内。そんなとき、幼子が「あーあ」という声をもらした。玉井清弘は、それを「ふかきかなしみ」という。それは、幼子の「ふかきかなしみ」であり、車内にいたほかの人たちの「ふかきかなしみ」である。そう、静かな車内には、実は「ふかきかなしみ」が潜んでいて、幼子が「あーあ」と声をもらしたとき、ふとそれがかたちになってしまったのだ。

静かな車内は、ときどき不思議な気持ちにさせられる。なんだか怖い気持ちになる、といったほうが正確かもしれない。バスには終点がある。終点に着けば、いやでも降ろされてしまう。でも、ほんとうに終点はあるのだろうか。

私たちは、いつもバスに乗っている。誰も話をしていない。窓には明るいひかりが射している。静かな車内。静かな車内には、「ふかきかなしみ」が潜んでいる。それを誰もが知っている。だから、話をしたり、ヘッドホンで音楽を聴いたり、あるいは車窓に映る目をやったりしながら、それがかたちにならないようにしているのだ。

「ふかきかなしみ」。それは、私たちが自ずと抱えている、いわば人としてのかなしみ。それは、静かな車内、つまり私たちの身体に、いつも潜んでいる。

 

トンネルに入るたび窓に沸きてくる顔、顔、顔よ香月の描く

鶴女房日本の風土にいし時代貧しく生きて人を許しき

あかねさす昼もほのかに灯をともしねむれる人ら地下鉄のゆく

譲り得る臓器持ちたるわがからだ青葉のもとにいまだわがもの

電子メール送れば二人おのこごは螢のような存在かえす

 

玉井のことばは穏やかだ。かつては誰もが知っていた、あるいは大切にしていたものやこと。こうしたものやことは、穏やかに語らなければ、ふっと逃げてしまう。玉井は、穏やかに語る。こうしたものやことの質感を掬い取る。