吉野 裕之


「聖家族教会」なんと作業中の工事現場にて教会にあらず

奥村晃作『ピシリと決まる』(2001年)

 

「コトやモノ、あるいはコトバと出会って心が動く。感動する。動き出した状態にある心をわたしは情(こころ)と表記するが、その情のまったき表現を目指す。仮に一首の中に助詞が五個使われているとして、それぞれの場所における五個の助詞は(そしてすべての言葉は)アプリオリに、イデア的に決まっているのであり、一つでも違(たが)えたならば情の、感動のまったき表現態とはならない。感動をつゆそこねることなく、百パーセント一首の中に実現すること。」

 

そして、「以上が、最終的に到達し、かつ揺らぐことのないわたしの短歌観である」と続く。奥村晃作歌集『ピシリと決まる』のあとがきからの引用である。

「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」(『鴇色の足』、1988年)、「梅の木を梅と名付けし人ありてうたがはず誰も梅の木と見る」(『父さんのうた』、1991年)といった作品が話題になってから、20年以上の時間が経つ。こうした作品は、私たちが知っている短歌とは異なった表情をしていた。私たちは驚き、しかし受け止めた。そして、「オクムラ短歌」は「ブランド」になった。

 

花火見て歌わんと思う 花火見ずに歌えぬわれは花火見に行く

「奥村はふびんな奴だ」その歌の「ただごと歌」が無視同然で

わが歌はスーパーリアリズム平べたい言葉をつづるのみのわが歌

 

『キケンの水位』(2003年)から引いた。奥村が、彼の作歌法やその作品の特質を直接語った(とも思われる)作品である。花火を見ないと歌えないので花火を見る。平べたい言葉を綴り、「ただごと歌」といわれ無視同然の扱いを受ける。

「花火見て歌わんと思う」。奥村は「花火見て歌わんと思う」のだ。しかし奥村は、花火という具体的なことがらを歌おうとはしていない。おそらくことがらに対するその視線を歌おうとしているのだと思う。だから私たちは、「オクムラ短歌」を受け止める。「オクムラ短歌」は、読者に追体験をさせる。つまり、その視線は私たちの視線なのだ。だからこそ、奥村の短歌観に納得する。なんだ、意外と自分と同じような短歌観じゃないか。とはいえ、「オクムラ短歌」と短歌観のあいだに違和を感じる人は少なくないだろう。しかしそれこそが、「オクムラ短歌」の機能なのである。

 

「聖家族教会」なんと作業中の工事現場にて教会にあらず

 

「オクムラ短歌」の表情は常にやさしい。ありがたい。「聖家族教会」は、バルセロナにある、あの有名なカトリックのバシリカ「サグラダ・ファミリア」のこと。むろん、それを知らなくてもまったく問題はない。「聖家族教会」という名前の教会という理解だけで、作品は語りかけてくれる。その「聖家族教会」が「作業中の工事現場」で「教会」ではないという。ああ、なるほど、と思う。

私たちの思考は、日ごろこのようにものごとに向かってはいかない。おそらく、それでは「聖家族教会」の本質を捉えられないと、無意識に判断するのだろう。これではあまりに表層的だ、そんな批判も聞こえてきそうだ。しかし、日常の表層を描くことによって見えてくるものがある。

 

ホテル直行のバスに見たりきバンコクの深夜の街を象さん歩く

演奏が終わりし刹那それまでの音楽世界永久(とわ)に消えたり

「出られる」は四音にして「出れる」だと三音だからピシリと決まる

 

そう、日常の表層を描くことによって見えてくるものとは、私たちを取り巻くさまざま秩序の輪郭のこと。私たちは、日ごろそれを意識することはほとんどない。なぜなら、その内側に取り込まれているから。

日常=世界は刺激的だ。