都築 直子


ここはゴミ堆積地にて淡く澄むレインボーブリッジわれに架かれり

佐伯裕子『流れ』(2013年)

 

「埠頭」と題する30首の中に置かれた歌だ。一連の中には<「東京五輪スタジアム予定地」看板が埋め立ての地に強気を見せる>、<物の流れは時の流れを表すと晴海埠頭に錆びているわたし>などの作があり、晴海埠頭に取材した歌群だとわかる。

 

一首は、「ゴミ堆積地」と「レインボーブリッジ」の取り合わせが読みどころだ。<わたし>がいま来ているここはゴミの堆積地で、淡く澄むレインボーブリッジが彼方に見える、という。

江戸の昔から東京は埋め立てに継ぐ埋め立てにより、領土面積をひろげてきた。ゴミ堆積地の上に存在する都市、それが東京だ。作者と同じく東京に生まれ育った私は、1960年代末の中学生時分、江東区の「ゴミ堆積地」が「夢の島」と名づけられたことに周りの大人があきれていたのを思いだす。ゴミで作った島が「夢の島」だって?

 

レインボーブリッジは、東京湾にかかる長さ798mの吊り橋で、1993年に開通している。名前こそ「レインボー」だが、実物は白い橋であり虹色ではない。夜間照明の色も、過去に数回ほど何かの記念日に虹色が使われたが、ふだんは白色にライトアップされている。歌の三句「淡く澄む」は、夜間照明された状態を指すとも読めるが、一連は昼の場面なので、遠方に白く見える橋を形容したことばと読む。皮肉まじりの「淡く澄む」だ。ああきれいだなあ、と感じているわけではないだろう。「われに架かれり」の「架かる」は、「橋が架かる」と「虹が掛かる」を掛けている。いま<わたし>の空に虹はかかっていないけれど、代わりにレインボーブリッジがかかってくれている。「レインボーブリッジわれに架かれり」。面白い表現だ。

 

「ゴミ堆積地」の「ゴミ」は、「瓦礫」と同類のことばだ。東日本大震災で発生した大量の瓦礫について、「瓦礫とは呼ばないでほしい」という声があった。津波が来る一瞬前までは、生活の一部だった家や家具や思い出の品々。同じように、家族の思い出が沁み込んだ長椅子も、粗大ゴミ場に置いた瞬間ゴミとなる。ゴミ堆積地の上の東京は、そこに住む人々の思い出の堆積上に存在する都市なのである。そういえば、横浜の山下公園は関東大震災による「瓦礫」を埋め立ててできた公園だ。都市とゴミの関係について、読み手の思いは広がってゆく。

 

『流れ』は、東京に生まれ育った<わたし>の目から見た東京や日本の姿を描く。自分のこども時代の東京をなつかしみつつも、いま現在の東京や日本を非難はぜず、また美化もしない。一冊を貫くのは、諦観と愛情に裏付けられた批評性というべきものだ。

「ふるさと」をうたう次の一首は、諦観と愛情という観点からとりわけ印象深い。

 

地下街の長き歩廊の向こうまで見とおせる席そこがふるさと