吉野 裕之


ねこバスが迎えに来ぬかと大きめの傘さして待つ雨のバス停

蔵本瑞恵『風を剖く』(2000年)

 

エンドレスのCD流すかたわらに観葉植物ぐいと伸びたり

Mサイズの郵便受けがあんぐりと書籍小包喰わされている

すっからかんとなりてしまえりちちははを石室の内におきてもどりて

裸木となってしまえばそれなりに美しくあるいっぽんの木は

ふんわりとクリームパンを手にのせる寝ぼけ眼(まなこ)の朝のテーブル

人がまた人を殺めるニュース見る殺めなくても人は死ぬのに

アスパラのようなる脚が真っ直ぐな影をのばして秋の夕暮れ

 

蔵本瑞恵歌集『風を剖く』は、こうした作品を収めている。形容詞を1つだけ選べば、「明るい」だろうか。読んだ私たちも元気になる、そんな作品だと思う。しかし、明るさの向こうにある悲しみに、多くの人が気づいている。そう、自らの悲しみとして。

 

ねこバスが迎えに来ぬかと大きめの傘さして待つ雨のバス停

 

ねこバスは映画「となりのトトロ」に登場する、からだがボンネットバスのような巨大なネコ、と説明をしなくても、誰でも知っている人気者だろう。大人には見えないねこバスだが、そんなねこバスは、大人にとってこそ必要な存在なのかもしれない。むろん、会うことはできない。見えないのだから。しかし、会うことができないとわかっていても、もしかしたら会うことができるかもしれないと思えること、このことによって人は救われる。

「大きめの傘さして」。この「大きめの」が一首を一首にしている。「ねこバスが迎えに来ぬかと傘さして待つ雨のバス停」。内容は、これで完結している。そう、完結してしまう。しかし、「大きめの」が置かれることによって、一首が動き出す。大きめの傘を選んだ著者の心のありように、読者の心が共鳴していく。大きめといってもどのような傘なのか、なぜ大きめ傘を選んだのか、といったことはわからない。わからないからこそ、共鳴する。そして、その悲しみを感受する。