吉野 裕之


としどしに臘梅紅梅咲きつげばこのまま長く生きむ気のする

宮 英子『西域更紗(さいゐきさらさ)』(2004年)

 

夜半の雪音なく降りてしろたへに箔置く見れば古代のごとし

地下鉄の駅の階段踏みのぼる地上に風あり雨のやみゐて

この手足思ひのままにならぬなど予期せぬ不如意ある日不意打ち

ぎんなんのしろがねの粒炒りながら冬至の日差しにひとり遊びつ

電車より窓にはつはつ見ゆるかな枝ごとにつどふ桐の花むら

風呼びて唐もろこしの赤ひげが擦れあふ音す傍(そひ)をゆくとき

冬薔薇(ふゆさうび)いちりん赤き机のうへ今年の陽ざしあたらしく差す

喫茶店編集室(エディテュール)にて朝食す隣れるひとは大きオムレツ

 

『西域更紗』は、宮英子が87歳のときに上梓された一冊。「平成十三年の夏、外出先で怪我をしてから杖に頼る生活になりました。家にひきこもることが多く、そのせいか、この歌集何とも無気力な内容であることに気付きます。素材は身のめぐりだけ、ただもう平易に自然体にと心掛けたことは、言ってみれば積極性の喪失に他なりません」と、あとがきにはある。

対象をシャープに把握する視線が魅力の作品たち。客観性や知性がそれを支えている。同時に、おおらかさやゆったりとした印象もある。「平易に自然体に」。こうした心のありようが、一首の姿勢を整えているのだと思う。

 

としどしに臘梅紅梅咲きつげばこのまま長く生きむ気のする

 

臘梅は、真冬に香りの強い黄色い花を咲かせ、分厚い花びらは独特の質感をもっている。梅は、いうまでもなく春の訪れを告げる花。紅梅は、色が鮮やかだ。ともに花のすくない冬を代表する植物。

臘梅も紅梅も、毎年その美しい花を見せてくれる。そのようすを見ていると、この先も長く生きられる、そんな気がする。なんでもないつぶやきのようだが、しかし必ずしもそれだけではなさそうだ。

「としどし」には、年を追うごとという意味もある。ここでは、毎年というだけでなく、年を追うごとに、という意味も込められているのではないだろうか。「としどしに臘梅紅梅咲きつげば」。年を追うごとに臘梅や紅梅がより美しい花を見せてくれる。「このまま長く生きむ」。たんに長く生きるだけではなく、臘梅や紅梅がより美しい花を見せてくれるように生きる。それは願いであり意志。つまり、人としての、ささやかな、しかし確かな誇り。誇りとは、立つことの力。あとがきに「積極性の喪失」と記しているが、それは行為としての積極性のことであり、精神としてのそれは、まぎれもなく宮を支えている。