吉野 裕之


折る膝のなければ敗れし軍鶏はからだごと地へ倒れてゆけり

田村広志『旅の方位図』(1986年)

 

おもい出して寂しむ ひと夜母港のごとわれのねむりにありたる胸を

ここに死して三十七年沖縄の父の野ざらしへいま降り立てり

戦場からのハガキ一枚写真二葉父につながる記憶のすべて

此処へ来よ帰って来よと犬吠埼の菜の群落に染みて春潮

ことば持たぬきよきものとし見てあれば大鴉ふと地の水を飲む

 

『旅の方位図』の著者のことばは、激しい。激しさは、しかし他者に向けられているのではない。自らに問うための激しさ。そんな言い方ができるかもしれない。

自らに自らを問う。田村広志は、そのためにことばを紡いでいるのだと思う。戦死した父。風土としての銚子。これらを核に、自らを問う。

激しさ。それは豊かさを志向している。豊かさは、表現としてのそれ。たとえばここに引いた5首における字あまりに、破れた印象はない。定型を十分に膨らませている、そんな印象だ。力は、反作用を生む。膨らませる力を加えれば、必ず等しい力が返ってくる。田村は、その力をしっかりと受け止める。しっかりと受け止められるのは、むろん定型を信じているからだ。こうした信じることのありようが、つまり豊かさなのだと思う。

 

折る膝のなければ敗れし軍鶏はからだごと地へ倒れてゆけり

 

詠まれているのは「敗れし軍鶏」。しかし、軍鶏のイメージは人間のイメージを呼び出し、からだごと地へ倒れていく軍鶏と膝を折って崩れていく人間の、2つのイメージが並行して進んでいく。ゆっくりゆっくり進んでいく2つのイメージ。

膝を折って崩れていく。その姿は、大きな痛みや大きな悲しみを思わせる。たとえば、ボクサーがリングで崩れていくさま。あるいは、大切な人を失ったときに泣き崩れるさま。しかし、折る膝がなければ、痛みや悲しみのすべてはそのまま身体に残留してしまう。身体はそれを抱え続け、そして抱えきれなくなったとき、膝を折ることなく、倒れていく。

私たちは、折る膝があるから、救われるのだろう。膝は、痛みや悲しみを逃がしてくれる、そんな装置なのだ。むろん、そのすべてを逃がしてくれるわけではない。しかし、再び立ち上がることを可能にしてくれる装置であり、折るという行為は、再生のための第一歩なのだと思う。

自らに自らを問う。そのことを通して田村は、人が人であることの本質を掴み出していく。