魚村 晋太郎


しばらくはだあれも飛び込まないプール揺れつつ光受けいれていて

山内頌子『うさぎの鼻のようで抱きたい』(2006年)

子供の頃、夏休みに通った市民プールには、1時間に1回、一斉休憩の時間がもうけられていた。
鐘の音だったか、合図があるとみなプールからあがり、数分間の休憩をとる。従わない子供は監視員から注意をされた。
ひとがあがったときのプールの水面は不思議な表情を見せる。
たっぷたっぷと、なかば規則的に、でも刻刻とかたちをかえる水面の様子は、川や湖の水の姿とはまたちがう。
透明なはずの水が、その起伏に空や陽射しを映して立体的な造形をつくる。
まぶしく光をかえすしずかな水面の起伏を子供心にぼんやりと見つめることがあった。

若いとき、特に一人暮らしの学生のころは、自分の生活のなかに友人や先輩、たくさんの他人が出入りし、一緒に飯を食べたり、ときには泊まっていったりする。
もちろん個人差のあることだが、部活やサークル活動をしている人は特にそうだろう。
そんな時期に、知り合いがみんな帰省していたりして、誰にも会わない数日があったりすると、自分だけの時間てこんなふうだったのか、とあらためて気づくことがある。

あるいは、親密な恋人がいて、ふだんは週末ごとに二人で過ごすのに、何かの都合で会えない休日があった。
さみしいのだけれど、ふだんと違う自分とひさしぶりに再会したような、新鮮な感じもする。
一首の主人公は、そんなときの気分に通じる、まぶしい空虚というか、のびのびした脱力感を陽射しのなかで感じているのだろう。
だあれも、という字あまりにも、そのあかるい、何もない感じがよく表れている。

大人になると、職場で、家庭で、きまった人たちと過ごすことが多くなり、周囲から期待される自分の役割も暗黙のうちにかたまってくることが多い。
それは、自分が必要とされていえることのあかしでもあるのだが、見えない枷のようで、たとえ一人でいるときでも、そこからなかなか自由になることは難しい。
まぶしいプールの水面をぼんやり見つめながら、自分だけの時間と再会することができたら、それは貴重なことだ。ふだん気づかなかった自分の可能性に気づかされることもあるだろう。
休憩の終りを告げる鐘の音がプールに響くと、子供たちは勢いよくまた水に飛び込むのだ。