恋愛にはるかに遠き関係として呼び出されたること多し

生沼義朗『関係について』(北冬舎:2012年)


 

◆ 人から見た自分 (1)

 

ちょっと話があるんだけれど、と呼び出される。いったいなんの話だろうと少なからずどきどきするけれど、毎度肩透かしを喰らう。手伝いの依頼であったり、相談であったり、単なる呑みの付き合いだったり…振り返るといつもそうで、自分が呼び出されるのは恋愛ごとではなく、むしろその対象とならないがためだったのだ、と気付く。
 

「呼び出されたる」と完了の「たり」が用いられているが、現代語に訳すとすれば「呼び出された」とするよりも、「呼び出されてしまった」と、やや不本意な感情も匂わせたい。
 

出来事としては寂しい歌だが、どこか悟ったような堅い語り口は面白い。「恋愛にはるかに遠き関係」だからこそ成り立つ豊かな人間関係もあるだろう、と考えれば、決して悪いこととは言えないのかもしれない。少なくとも、呼び出されないよりはずっと。
 

ファミレスで深夜に茂吉読んでいるわれはおそらく晩婚ならむ

 

こちらも、同じ匂いのする歌だ。深夜のファミレスで歌集を読む自分を、どこか他人事のように眺めている。「晩婚」が悪いものとは言えないが、「ファミレス」と「深夜」と「茂吉」の合せ技がいただけないのだろう。たとえ「茂吉」の箇所を「白秋」なり「邦雄」なり適当な歌人に変えても「晩婚」の予感は拭えなさそうだ。
 

客観視しながらも、やっぱり深夜のファミレスで茂吉を読んでいるのは自分自身が選択した行為であり、その意味では自由を謳歌しているとも言える。そんな自分を満更でもなく思っているようだ。
 

客観視する自分も、客観視される自分もどちらも本当の自分であり、両者を束ねた存在として誰もが生きている。
 

今回は、一首の中において、人から見た自分の姿が強く意識された歌を追ってみたい。
 

さて、次に紹介する歌も、〈自由を謳歌している〉ようだが――
 
 

(☞次回、3月29日(水)「人から見た自分 (2)」へと続く)