髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた

嵯峨直樹『神の翼』(短歌研究社:2008年)


(☜6月5(月)「生きると死ぬ (1)」より続く)

 

◆ 生きると死ぬ (2)

 

生まれたらもう傷ついていた。思春期や青年期と成長を重ねながら、ひととの関係のなかで傷つくのではなく、生まれながらにして私は既に傷ついていた――
 

一見すると、自らの人生がマイナスから始まったことを嘆くようにみえて、下の句の認識からは、まわりの人々と私は違うのだ、という自己愛が感じられる。「髪をいじ」るという行為は、単に癖だともとれるが、少し風に乱れただけでも気にして髪を直しているような場面を描いた。しかし、人目を気にしているわけではなく、ただ空を見ている。
 

誰かと衝突するから傷つくわけではない、誰かが見ているから髪を気にするわけではない。「誰か」がいないのがこの一首の最大の特徴だろう。だからこそ、うっすらとにじみ出る自意識が、ひとを寄せ付けない膜のように身を覆っている。
 

人生を楽しんでいる集団の風圧頬に受けて帰れり
人生を楽しめずいる集団を蔑して駅の階を下れり

 

『神の翼』から六年を経て刊行された、第二歌集『半地下』から引いた。
 

一首目。賑やかな若者たちや、楽しげに街路歩く人々とすれ違ったのだろうか。自分自身が「人生を楽しんでいる集団」に含まれていないことが書かれている。二首目は、一首目との対比構造から考えて、「蔑して駅の階を下」った主語は〈私〉だと解釈するのが素直だろう。例えば仕事に疲れたサラリーマンたちだろうか、「人生を楽しめずいる集団」を見下しつつ、〈私〉は歩いて行く。
 

まるで人間を分類すると、〈人生を楽しんでいる集団〉と〈人生を楽しめずいる集団〉、そして〈生まれたらもう傷ついていたひとり〉の三つに分けられるかのように――
 
 

(☞次回、6月9(金)「生きると死ぬ (3)」へと続く)