吉野家の向かいの客が食べ終わりほぼ同じ客がその席に着く

望月裕二郎『あそこ』(書肆侃侃房:2013年)


(☜8月2日(水)「かすかに怖い (11)」より続く)

 

かすかに怖い (12)

 

吉野家で牛丼を食べていると、向かいの席の客が店を出る。次に座ってきた客も、先ほどの客が戻ってきたかと思えるような同じ客だった――
 

牛丼チェーン店という高度に管理されて量産展開された飲食店のなかに、これまた現代社会の中で量産されたような人々が訪れる。現代では何気ない風景のようでいるが、「何気ない」という言葉で流してしまいようになるのも恐ろしい。
 

向かいの席の客から見れば、私も一人の客に過ぎない。私が立ち去った後に座るのは、もしかしたら私にそっくりな人物かもしれない。そう考えると、向かいに座る客達でさえ私の複製のように思えてくる。
 

同じ歌集に次の一首があった。
 

君は手を握ってくれるもしかしたらWindowsかもしれない僕の

 

もしかしたらコンピュータかもしれない私自身。そこに「Windowsかもしれない」という具体的なOS名をあててきた点に、ずれたユーモアのようなものがあるが、土台となっているのはやはり、複製され並列化された存在としての自分自身に対する意識があるのだろう。
 

全てはコピー&ペーストが可能な時代である。
 
 

(☞次回、8月7日(月)「かすかに怖い (13)」へと続く)